神武天皇がお隠れになった後、日向でお生まれになった御子・当芸志美美命は、父帝の皇后である伊須気余理比売を娶り、自らの権勢を固めようといたしました。
やがて彼は、腹違いの弟たち、日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命、三人を討ち滅ぼし、独りで天下を思いのままにしようと企てました。
しかし、その企てをいち早く察したのは、神武天皇の皇后であり三人の御子の母君でもある伊須気余理比売でした。
伊須気余理比売は御子たちに危険を悟らせるため、次のような歌をお詠みになりました。
佐韋河の方から雲が立ち昇り、畝傍山の木々の葉がざわめいている。昼は雲がたなびくだけだが、夕暮れには風が荒れ狂い、嵐の前触れのように木の葉が鳴り騒いでいる。
この歌の意味を悟った御子たちは驚き、逆に先手を取って当芸志美美命を討とうと決意されました。
このとき、末の弟の神沼河耳命が真ん中の神八井耳命に向かって、
「あなたが剣を手にし、当芸志美美命を討ってください」と進言しました。
神八井耳命は武器を取って立ち向かいましたが、いざ刃を振るおうとすると手足が震え、どうしても刺すことができませんでした。
そこで神沼河耳命は兄の刃を受け取り、自ら果敢に斬りかかって当芸志美美命を討ち取りました。
このとき神八井耳命は弟に向かい、
「私はあいつを討つことができなかった。しかしあなたは見事に成し遂げた。兄である私が上に立つことはもはやできない。あなたこそ天皇となり、天下を治めてください。私は神を祀る役に徹して、あなたに仕えよう」
と言いました。
こうして神沼河耳命は兄二人の推されて即位し、建沼河耳命と尊号を改められました。これが第二代・綏靖天皇であります。
綏靖天皇は大和国葛城の高岡宮に都を定めて天下を治め、御齢四十五にしてお隠れになり、御陵は衝田の岡に築かれました。
この第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇の時代を「欠史8代」といいます。
この8代の天皇については、在位年数や系譜は記されているものの、具体的な政治的事績や神話的エピソードがほぼ残されていません。
そのため、実在性が薄く、後世に系譜を整えるために付け加えられた可能性があると考えられています。
一方で、この時代が空白だったわけではなく、大和王権の成立過程における「先史的な時代」、つまり、王権の基盤がまだ整わず、後世の天皇に比べて権威や支配領域が限定的であった可能性も指摘されています。
考古学的には弥生時代後期から古墳時代初期にあたり、各地の豪族が力を持ち、徐々に統合が進んでいた時期に相当すると見られます。
こうした理由から、欠史八代は「記録の欠けた八代」と呼ばれ、史実性については疑問視されつつも、天皇家の系譜を連続させるうえで不可欠な存在として伝承に組み込まれているのです。
第二代、神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと)、綏靖(すいぜい)天皇は、神武天皇のの第三皇子で、大和の葛城の高岡宮においでになって、天下をお治めになりました。この天皇は御年四十五、御陵は衝田岡(つきだのおか)にあります。
大和の葛城の高岡宮は、奈良県御所市森脇。「綏靖天皇葛城高岡宮址」の石碑が残されています。近くには雄略天皇と問答していた一言主神を祀る葛城一言主神社があり、仁徳天皇の皇后である石之日売の故郷でもあります。
衝田岡は、奈良県橿原市四条町の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)に治定されています。
綏靖天皇の治世については史書に具体的な業績は乏しく、政治の実態はほとんど伝わっていません。一方で、南北朝時代の『神道集(しんとうしゅう)』には、朝夕に7人もの人々を食べ、やがて人々は「天が火の雨を降らす」とのお告げを広め、天皇を騙して洞窟に閉じ込めて出られなくしたという荒唐無稽な説話があります。
第三代、師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみのみこと)、安寧天皇は、綏靖天皇の皇子で、大和の片塩の浮穴の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇の御年四十九歳、御陵は畝傍山の御陰(みほと)にあります。
大和の片塩の浮穴の宮は、現在の奈良県大和高田市片塩町の石園坐多久虫玉神社(いそのにますたくむしたまじんじゃ)がその跡地だとされています。
畝傍山の御陰は、現在の奈良県橿原市吉田町の畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)に治定されています。
第四代、大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと)、懿徳(いとく)天皇は、安寧天皇の第二皇子で、大和の軽の境岡宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は御年四十五歳、御陵は畝傍山の眞名子谷(まなごだに)の上にあります。
大和の軽の境岡宮は、現在の奈良県橿原市白橿町だとされ、「軽曲峡宮跡伝承地」という木製の碑があります。
畝傍山の眞名子谷は、奈良県橿原市西池尻町の畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)に治定されています。
第五代、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)、孝昭天皇は、懿徳天皇の皇子で、大和の葛城の掖上(わきがみ)の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博多山の上にあります。
大和の葛城の掖上の宮は、奈良県御所市玉手の御所実業高等学校のそばに、「孝昭天皇掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)跡」の石碑があります。
掖上の博多山の上は、奈良県御所市三室の孝昭天皇掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)に治定されています。
第六代、大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)、孝安天皇は、孝昭天皇の第二皇子で、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は御年百二十三歳、御陵は玉手の岡の上にあります。
大和の葛城の室の秋津島の宮は、奈良県御所市室の室八幡神社に「孝安天皇室秋津島宮址」の石碑があります。
玉手の岡の上は、奈良県御所市玉手の玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に治定されています。
富士山は孝安天皇の御代にはじめて、人の世に姿を現したという伝説が残されています。
第七代、大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)、孝霊天皇は、孝安天皇の皇子で、大和の黒田の庵戸(いおど)の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂の上にあります。
大和の黒田の庵戸の宮は、奈良県磯城郡田原本町黒田の法楽寺に、「孝霊天皇黒田廬戸」と刻まれた石碑があります。もともとこの法楽寺の場所には、庵戸神社がありました。
片岡の馬坂の上は、奈良県北葛城郡王子町の片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)と治定されています。
鳥取県の日野郡日南(にちなん)町や西伯郡伯耆町(さいはくぐんほうきちょう)にいくつかある樂樂福(ささふく)神社の社殿には、孝霊天皇の鬼退治の伝説が残されています。
かつて日野郡にあった溝口町の鬼住山(きずみやま)を根城にして暴れ回っていた鬼集団がありました。この地を訪れた孝霊天皇は南の笹苞山(さすとさん)に陣を張り、笹巻きの団子を3つ置いて鬼の兄弟、大牛蟹と乙牛蟹をおびき出し、弟の乙牛蟹を撃ったところ、兄の大牛蟹は蟹のように這いつくばって命乞いをしました。大いに喜んだ里人達は笹の葉で屋根を葺いた神社を作りました。これが樂樂福神社の始まりということです。
さらに、孝霊天皇の皇子・吉備津彦命と稚武彦命(わかたけひこのみこと)は、温羅(うら)と呼ばれる人物を破り吉備国を平定し、その勢力を讃岐や出雲にまで広げたと伝えられています。この際、犬飼部・猿飼部・鳥飼部と呼ばれる家臣を従えました。こうした伝承が後世の桃太郎伝説の起源とみなされ、吉備津彦が桃太郎、温羅が鬼に例えられる説が岡山・香川に残っています。また、庵戸宮周辺は古来より桃の名所でした。
そして、孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)を卑弥呼とみる説から、庵戸宮は卑弥呼の誕生地ともされています。これを受け、桃太郎と卑弥呼は姉弟と位置づけられることになり、庵戸宮が両者の生誕地と伝えられています。
孝霊天皇の御代、BC290年からBC215年頃に、富士山が大噴火をしたため、周辺住民が離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあるのですが、これに関しては、事実であった可能性があるとされています。
第八代、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)、孝元天皇は、孝霊天皇の皇子で、大和の軽の堺原の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は御年五十七歳、御陵は剣の池の中の岡の上にあります。
大和の軽の堺原の宮は、奈良県橿原市見瀬町の牟佐座神社(むさにますじんじゃ)あたりとされています。神社前の道路の脇に「孝元天皇軽境原宮址」の石碑があります。
剣の池の中の岡の上は、奈良県橿原市石川町の劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)に治定された。
第九代、若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)、開化天皇は、孝元天皇の第二皇子で大和の春日の率川(いざかわ)宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は御年六十三歳、御陵は率川の坂の上にあります。
大和の春日の率川宮は、奈良市本子守町の率川神社、正式名称は率川坐大神御子神社の場所とされています。「大神神社」の摂社です。
率川の坂の上は、奈良市油阪町の春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)に治定されています。
古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)
當藝志美美の命の変
かれ天皇崩りまして後に、その庶兄當藝志美美の命、その嫡后伊須氣余理比賣に娶へる時に、その三柱の弟たちを殺せむとして、謀るほどに、その御祖伊須氣余理比賣、患苦へまして、歌もちてその御子たちに知らしめむとして歌よみしたまひしく、
畝火山 木の葉さやぎぬ。
風吹かむとす。 (歌謠番號二一)
また歌よみしたまひしく、
夕されば 風吹かむとぞ
木の葉さやげる。 (歌謠番號二二)
- とゐ(トヰは、同様する意の動詞。トヰナミ(萬葉集)のトヰと同語)
- 兵を持ちて入りて(武器を持って)
- 忌人(潔斎をして無事を祈る人。祭をおこなう人)
- 意富の臣(古事記の撰者、太の安麻呂の系統)