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古事記現代語訳

古事記現代語訳(28)丹波の四女王と登岐士玖能迦玖能木実

垂仁天皇は、皇后の沙本毘売命が生前に「自分の代わりにお仕えできる女性として」と遺した言葉に従い、丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばのみちぬしのみこと)の娘である四人の姫を都へお召しになりました。

四姉妹とは、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、歌凝比売命(うたこりひめのみこと)、円野比売命(まとのひめのみこと)の四姉妹です。

しかし、天皇はその中から比婆須比売命と弟比売命のお二方だけをお選びになり、妹の歌凝比売命と円野比売命の二人は、容姿が気に入らないという理由で、お返しになりました。

これを恥じた円野比売命は、「同じ姉妹でありながら、容姿ゆえに都から追い返されるとは、村人に知られれば大きな恥だ」と嘆き悲しみ、山城国に至った時、木の枝に身を掛けて命を絶とうとしました。

これによりその地は懸木(さがりき)と呼ばれるようになり、後に相楽(さがらか)と名を改めました。

円野比売命はとうとう深い淵に身を投げて亡くなられました。そのため、この地はかつて墮国(おちくに)と呼ばれ、のちに弟国(おとくに)と呼ばれるようになったのです。

山城国の相楽は現在の京都府相楽(そうらく)郡、弟国は現在の京都府乙訓(おとくに)郡です。

そしてある時、天皇は三宅の連の祖先である多遅摩毛理(たじまもり)に仰せつけて、「常世国へ行き、登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)という香り高き果実を取ってまいれ」と命じられました。

多遅摩毛理はかしこまって、はるか彼方の常世国へと渡り、長い年月を費やして、ようやくその国にたどり着きました。

多遅摩毛理は天日矛の子孫「登岐士玖能迦玖能木実」は、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」とも呼ばれ、現在の橘で「シーズンでなくても、いつまでも良い香りのする木の実」のこと。

常世国は、海の彼方にある理想郷の意味。

そこで彼は、枝葉のついた実を八つ、実だけのものを八つ、合計十六の実を手に入れ、再び長い旅を経て都へ戻ってまいりました。

ところが、その時すでに垂仁天皇は崩御されていたのです。

多遅摩毛理は深い悲しみに打ちひしがれながら、枝葉のある実を四つと、実だけのもの四つをお后の比婆須比売命に献上し、残りの四つずつを天皇の御陵にお供え申し上げました。

そして御陵の前にひれ伏し、両手でその実を高々と差し上げながら、泣き叫びました。

「常世国の登岐士玖能迦玖能木実を、このようにお持ちいたしました!どうかご覧くださいませ!」

彼は繰り返し、繰り返し、いつまでも叫び続け、ついにはその場で絶命しました。

この登岐士玖能迦玖能木実とは、現在の橘であり、不老不死の実とされていました。

垂仁天皇は御年百五十三歳で崩御され、御陵は菅原の御立野(みたちの)に築かれました。

お后の比婆須比売命は、石棺を作る部族の石祝作(いしきつくり)を定め、また埴輪や古墳を作る土師部(はじべ)を置かれたと伝わります。

比婆須比売命の御陵は、狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)に治定されています。

菅原御立野は、『日本書紀』では菅原伏見陵と記され、奈良県奈良市尼ヶ辻町の宝来山古墳(ほうらいさんこふん)に治定されています。

狭木之寺間陵は、奈良県奈良市山陵町に位置し、佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)とされています。

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

丹波の四女王

またその后の白したまひしまにまに、美知能宇斯みちのうしの王の女たち、比婆須ひばす比賣の命、次におと比賣の命、次に歌凝うたこり比賣の命、次に圓野まとの比賣の命、并はせて四柱を喚上めさげたまひき。然れども比婆須ひばす比賣の命、弟比賣おとひめの命、二柱を留めて、その弟王おとみこ二柱は、いと醜きに因りてもとくにに返し送りたまひき。ここに圓野まとの比賣やさしみて「同兄弟はらからの中に、姿みにくきによりて、還さゆる事、隣里ちかきさとに聞えむは、いとやさしきこと」といひて、山代の國の相樂さがらかに到りし時に、樹の枝に取りさがりて、死なむとしき。かれ其地そこに名づけて、懸木さがりきといひしを、今は相樂さがらかといふ。また弟國おとくにに到りし時に、遂にふかき淵に墮ちて、死にき。かれ其地そこに名づけて、墮國おちくにといひしを、今は弟國といふなり。

  • 山代の国の相樂(京都府相楽郡)
  • 弟国(京都府乙訓郡)

時じくの香の木の実

また天皇、三宅みやけむらじ等が祖、名は多遲摩毛理たぢまもりを、常世とこよの國に遣して、時じくのかくを求めしめたまひき。かれ多遲摩毛理たぢまもり、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵矛八矛かげやかげほこやほこを、ち來つる間に、天皇既にかむあがりましき。ここに多遲摩毛理たぢまもり縵四縵矛四矛かげよかげほこよほこを分けて、大后に獻り、縵四縵矛四矛かげよかげほこよほこを、天皇の御陵の戸に獻り置きて、その木の實を擎ささげて、叫びおらびて白さく、「常世の國の時じくのかくを持ちまゐ上りてさもらふ」とまをして遂におらび死にき。その時じくのかくの木の實は今の橘なり。

この天皇、御年一百五十三歳ももちまりいそぢみつ、御陵は菅原すがはら御立野みたちのの中にあり。

またその大后おほきさき比婆須ひばす比賣の命の時、石祝作いしきつくりを定め、また土師部はにしべを定めたまひき。この后は狹木さき寺間てらまの陵をさめまつりき。

  • 多遲摩毛理(天の日矛の子孫)
  • 常世の國(海外の国。大陸における橘の原産地まで行ったのだろう)
  • 時じくの(その時節でなく熟する香のよい木の実)
  • 縵八縵矛八矛カゲは蔓のように輪にしたもの。矛は直線的なもの。どちらも苗木)
  • 菅原御立野奈良県生駒郡)
  • 石祝作石棺を作る部族)
  • 狹木寺間の陵(奈良県生駒郡)