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古事記現代語訳

古事記現代語訳(46)仁徳天皇の御子間での皇位争奪戦

仁徳天皇には皇子が五人、皇女が一人おありになりました。

その中でも、第十七代履中天皇となられた伊邪本和気命(いざほわけのみこと)、第十八代反正天皇となられた水歯別命(みずはわけのみこと)、そして第十九代允恭天皇となられた若子宿禰命(わくごのすくねのみこと)のお三方が、次々と位にお就きになりました。

仁徳天皇の崩御の後、まずお兄さまの伊邪本和気命が皇位を継ぎ、難波の高津宮において履中天皇として即位されました。

大嘗祭の宴会のとき、履中天皇は大いにお酒を召し上がられ、深く酔ってそのままお休みになりました。

ところが、すぐ下の弟の墨江之中津王(すみのえのなかつのおう)が、兄を討って位を奪おうと考え、突如御殿に火を放ちました。

たちまち炎は四方へ燃え広がり、宮中は大混乱に陥りました。

酔い潰れていた履中天皇を、渡来系の豪族である大和漢直(やまとのあやのあたい)の祖・阿知直(あちのあたい)が急いで抱え出し、馬にお乗せして大和へと逃れました。

河内の多遅比野(たじひの)に至ったとき、天皇はようやく目を覚まされ、
「ここはどこだ」とお尋ねになりました。

阿知直が事情を申し上げると、天皇は驚かれ、次のお歌を詠まれました。

もしここで泊まるとわかっていたなら、夜風を防ぐ屏風を持って来たのに。

さらに波邇賦坂(はにうざか)に立たれて、遠く難波の方を望まれると、いまだ炎々と燃え盛る宮が見えました。そこで歌を詠まれました。

坂の上に立って見れば、家々が燃え盛っている。あの火の中に、妻の宮もあるのだろう。

その後、河内の大坂山、つまり二上山(ふたかみやま)の麓で一人の乙女に道を尋ねると、

「武器を持った人たちが大勢、この山を塞いでおります。當麻路(たぎまじ)から回ってください」と言いました。

天皇は、當麻路を通って、無事に石上神宮へたどり着かれました。

そこへ二番目の弟、水歯別命(みずはわけのみこと)がやってきました。

しかし履中天皇は「おまえも中津王と同じ考えではないのか」と疑われました。

水歯別命は「決してそのようなことはございません」と否定すると、天皇は「ならば中津王を討って来い。それが済んだら会ってやる」と命じました。

難波の高津宮(たかつのみや)は、大阪市街地を南北に走る上町台地の北端に位置する大阪城本丸地区か中央区法円坂の難波宮跡公園あたりだとされています。大阪市中央区高津には、仁徳天皇を主祭神とする高津宮(こうづぐう)という神社もあります。

大嘗祭は、天皇が皇位継承に際して行う最初の特別な新嘗祭(にいなめさい)のこと。新嘗祭は、毎年11月23日に行われる収穫感謝の秋祭りです。

河内の多遅比野は、現在の大阪府松原市から羽曳野市のあたり。

波邇賦坂は、現在の羽曳野市野々上の埴生坂のあたりだとされています。

二上山は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。登山口は両方にあります。現在は、「にじょうざん」と呼ばれています。雄岳(おだけ)、517メートルと雌岳(めだけ)、474メートルの二峰からなります。「大坂山」とも呼ばれていました。

當麻路は、現在の竹内街道(たけのうちかいどう)で、大阪府堺市から奈良県葛城市の長尾神社付近に至る日本最古の古代官道。二上山の南を通ります

石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にあります。

水歯別命はすぐさま難波に戻り、墨江之中津王に仕えている隼人の曽婆訶理(そばかり)に「もしお前が私の言うことを聞いてくれるのなら、私が天皇となった後、お前を大臣にして、一緒に天下を治めようと思うが、どうだ?」と大臣の位を約束して、たくさんの者をやり、王を殺させました。曽婆訶理は王が厠に入るところを矛で刺し殺しました。

その後、水歯別命は曽婆訶理を伴って大和へ向かいました。

しかし大坂の山口で「曽婆訶理は俺の役には立ってくれたが、簡単に主人を裏切るような油断ならないやつだ。そうはいっても、こいつの功績に報いなければ俺が信用を失うことになる。そうだ、こいつに大臣の位を授けてその功績に報いた後、曽婆訶理本人は殺してしまおう」と考えられました。

そして曾婆加里に「今日はここ山口に泊まり、まずおまえに大臣の位を授け、明日大和に上ることにしよう」と言って、ここに仮宮を作り、役人たちに礼拝をさせ、曽婆訶理はたいへん喜びました。

隼人は、九州南方の住民。宮廷の護衛としていました。

大坂の山口は、二上山の西側、現在の大阪府南河内郡太子町付近。「近つ飛鳥、河内飛鳥」と呼ばれています。

そこで曽婆訶理に「新大臣、今宵はあなたと一緒に酒を飮もう」誘い、顏が隠れるほどの大きな盃に、酒を注ぎました。

まず、水歯別命が先に飲み安心させた後、曽婆訶理に代わり、大きなお盃がその顏を覆いました。

ちょうどその時、水歯別命は、筵(むしろ)の下に隠していた大刀を取り出して、曾婆加里の首をお斬りになりました。

翌日、大和に上って、二日留まり、曾婆加里を殺めた禊を行いました。

二日留まった場所を「遠つ飛鳥、大和飛鳥」と呼ぶようになりました。

そしてその翌日、石上神宮に参拝し、履中天皇に「すべて平定し終って参りました」と奏上しました。

履中天皇は火事の時、自分を助けてくれた阿知直を「蔵の司」という役に任命し、さらに領地を与えました。

そしてその後、伊波礼の若桜宮に遷り、御年六十四歳で崩御されました。

その後を継いだのが弟の水歯別命であり、第十八代反正天皇として河内の多遅比の柴垣宮にて天下を治められました。

背丈九尺二寸五分、歯は珠を貫いたように整い、美しい容貌であったと伝えられます。

反正天皇は御年六十で崩御され、その御陵は毛受野(もずの)にあると伝わっています。

蔵の司は、宮中の倉を管理する役職。大蔵大臣のようなもの。

伊波礼の若桜宮は、奈良県桜井市池之内の稚櫻(わかざくら)神社か、桜井市谷の若櫻神社あたりだとされています。

河内の多遅比の柴垣宮は、松原市上田の柴籬(しばがき)神社あたりだとされています。主祭神は反正天皇です。歯の神様として信仰されています。

背丈九尺二寸五分は身長約3メートル。

毛受野は、堺市三国ヶ丘町に治定されています。仁徳天皇陵の北にあり、百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)と呼ばれています。

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

みこ伊耶本和氣いざほわけの王伊波禮いはれ若櫻わかざくらの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、葛城かづらき曾都毘古そつびこの子、葦田あしだの宿禰が女、名は黒比賣くろひめの命に娶ひて、生みませる御子、いち忍齒おしはの王、次に御馬みまの王、次に妹青海あをみの郎女、またの名は飯豐いひとよの郎女三柱

もと難波の宮にましましし時に、大嘗おほにへにいまして、豐のあかりしたまふ時に、大御酒にうらげて大御寢おほみねましき。ここにその弟墨江すみのえの中つ王、天皇を取りまつらむとして、大殿に火を著けたり。ここにやまとあやあたへの祖、阿知あちの直、盜み出でて、御馬に乘せまつりて、やまとにいでまさしめき。かれ多遲比野たぢひのに到りて、寤めまして詔りたまはく、「此處ここ何處いづくぞ」と詔りたまひき。ここに阿知の直白さく、「墨江の中つ王、大殿に火を著けたまへり。かれまつりて、倭にのがるるなり」とまをしき。ここに天皇歌よみしたまひしく、

丹比野たぢひのに 寢むと知りせば、
防壁たつごもも 持ちて來ましもの
寢むと知りせば。  (歌謠番號七六)
波邇賦はにふに到りまして、難波の宮を見けたまひしかば、その火なほえたり。ここにまた歌よみしたまひしく、
波邇布はにふ坂 吾が立ち見れば、
かぎろひの 燃ゆる家むら
つまいへのあたり。  (歌謠番號七七)
かれ大坂の山口に到りましし時に、女人をみな遇へり。その女人の白さく、「つはものを持てる人ども、さはにこの山をへたれば、當岐麻道たぎまぢより廻りて、越え幸でますべし」とまをしき。ここに天皇歌よみしたまひしく、
大坂に 遇ふや孃子をとめを。
道問へば ただにはらず
當岐麻路たぎまぢを告る。  (歌謠番號七八)
かれ上り幸でまして、いそかみの宮にましましき。

 

  • 伊耶本和氣の王(履中天皇)
  • 伊波禮若櫻の宮(奈良県磯城郡)
  • 大嘗にいまして(大嘗祭をなさって)
  • うらげて(浮かれて)
  • 多遲比野(大阪府南河内郡)
  • 防壁(コモを編んで風の防ぎとする屏風)
  • 持ちて來ましもの(持って来たろうに。仮説の語法)
  • 波邇賦(大阪府南河内郡から大和に越える坂)
  • かぎろひの(比喩による枕詞。カギロヒは陽炎)
  • 當岐麻道(奈良県北葛城郡の當麻(古名タギマ)へ越える道で、二上山の南を通る。大坂は二上山の北を越える)
  • にはらず(まっすぐにとは言わないで)
  • の宮(奈良県山辺郡の石上の神宮)
ここにその同母弟いろせ水齒別みづはわけの命、まゐきてまをさしめたまひき。ここに天皇詔りたまはく、「吾、汝が命の、もし墨江すみのえなかつ王とおやじ心ならむかと疑ふ。かれ語らはじ」とのりたまひしかば、答へて曰さく、「僕はきたなき心なし。墨江の中つ王とおやじくはあらず」と、答へ白したまひき。また詔らしめたまはく、「然らば、今還り下りて、墨江の中つ王を殺して、のぼり來ませ。その時に、あれかならず語らはむ」とのりたまひき。かれすなはち難波に還り下りまして、墨江の中つ王に近くつかへまつる隼人はやびと、名は曾婆加里そばかりを欺きてのりたまはく、「もし汝、吾が言ふことに從はば、吾天皇となり、汝を大臣おほおみになして、天の下治らさむとおもふは如何に」とのりたまひき。曾婆訶里答へて白さく「命のまにま」と白しき。ここにその隼人に物さはに賜ひてのりたまはく、「然らば汝の王をりまつれ」とのりたまひき。ここに曾婆訶里、己が王の厠に入りませるを伺ひて、ほこもちて刺してせまつりき。かれ曾婆訶里をて、やまとに上り幸でます時に、大坂の山口に到りて、思ほさく、曾婆訶里、吾がために大きいさをあれども、既におのが君を殺せまつれるは、不義きたなきわざなり。然れどもその功に報いずは、まこと無しといふべし。既にその信を行はば、かへりてその心をかしこしとおもふ。かれその功に報ゆとも、その正身ただみを滅しなむと思ほしき。ここをもちて曾婆訶里に詔りたまはく、「今日は此處ここに留まりて、まづ大臣の位を賜ひて、明日上りまさむ」とのりたまひて、その山口に留まりて、すなはちかり宮を造りて、俄に豐のあかりして、その隼人に大臣の位を賜ひて、百官つかさづかさをしてをろがましめたまふに、隼人歡びて、志遂げぬと思ひき。ここにその隼人に詔りたまはく、「今日大臣とおやうきの酒を飮まむとす」と詔りたまひて、共に飮む時に、おもを隱す大まりにそのたてまつれる酒を盛りき。ここに王子みこまづ飮みたまひて、隼人後に飮む。かれその隼人の飮む時に、大鋺、面を覆ひたり。ここにむしろの下に置けるたちを取り出でて、その隼人が首を斬りたまひき。すなはち明日くるつひ、上り幸でましき。かれ其地そこに名づけてちか飛鳥あすかといふ。やまとに上り到りまして詔りたまはく、「今日は此處に留まりて、祓禊はらへして、明日まゐ出でて、神宮かむみやを拜まむ」とのりたまひき。かれ其地そこに名づけて遠つ飛鳥といふ。かれいそかみの神宮にまゐでて、天皇に「政既にことむけ訖へてまゐ上りさもらふ」とまをさしめたまひき。ここに召し入れて語らひたまひき。
天皇、ここに阿知の直を、始めてくらつかさけたまひ、また粮地たどころを賜ひき。またこの御世に、若櫻部わかさくらべの臣等に、若櫻部といふ名を賜ひ、また比賣陀ひめだの君等に、比賣陀の君といふかばねを賜ひき。また伊波禮部いはれべを定めたまひき。
天皇の御年六十四歳むそぢあまりよつ(壬申の年正月三日崩りたまひき。)御陵は毛受もずにあり。

 

  • 水齒別の命(反正天皇)
  • 隼人(九州南方の住民。勇敢なので召し出して宮廷の護衛としている)
  • その正身(その本身を)
  • を隱す大(顔を隠すような大きな椀)
  • 飛鳥(大和の飛鳥に対していう)
  • 祓禊(隼人を殺して穢を生じたので、それを祓う行事をして)
  • 神宮(石上の神宮。天皇の御座所)
  • 遠つ飛鳥(奈良県高市郡の飛鳥)
  • (物の出納をつかさどる役)
  • 粮地(領地)
いろと水齒別みづはわけの命、多治比たぢひ柴垣しばかきの宮にましまして、天の下治らしめしき。天皇、御身みみたけ九尺二寸半ここのさかまりふたきいつきだ。御齒の長さ一、廣さ二きだ。上下等しくととのひて、既に珠をけるが如くなりき。天皇、丸邇わに許碁登こごとの臣が女、都怒つのの郎女に娶ひて、生みませる御子、甲斐かひの郎女、次に都夫良つぶらの郎女二柱。またおやじ臣が女、弟比賣に娶ひて、生みませる御子、たからの王、次に多訶辨たかべの郎女、并はせて四柱ましき。天皇御年六十歳むそぢ(丁丑の年七月に崩りたまひき。)御陵は毛受野もずのにありと言へり。

 

  • 水齒別(反正天皇)
  • 多治比柴垣の宮(大阪府南河内郡)
  • 珠をけるが如く(珠を緒に刺したようだ)