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古事記現代語訳

古事記現代語訳(47)允恭天皇の氏姓制度改革

允恭天皇、男浅津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと)は、反正天皇のお後を継がれるべき方でしたが、もともと長く病気に悩まれていたため、「この身体では帝位にはとても就けない」と固くご辞退されました。

しかし、皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつひめのみこと)をはじめ臣下たちが熱心に勧められましたので、やむなく即位され、大和の遠飛鳥宮(とおあすかのみや)にお遷りになって、天下をお治めになりました。

その御代に、新羅の国主から八十一艘の船に山のような貢ぎ物が届けられました。当時の朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の三国が三つ巴の争いを繰り広げていました。

大使として渡来したのは金波鎮漢紀武(こみぱちかにきむ)で、彼は医薬に通じていたため、長年の天皇のご病気を見事に癒やしました。

允恭天皇は次第に、国内の多くの部族がめいめい勝手に氏姓(うじかばね)を名乗り出し、混乱しているのをいたく心配されるようになりました。

そこで大和の味白檮(うまかし)の地に八十禍津日(やそまがつひ)の神を祀り、そこに「玖訶瓮(くかべ)」という大釜を据えて、煮えたぎる湯と泥を用いて「盟神探湯(くかたち)」の儀を行い、人々に自らの氏姓を名乗らせました。

正直に本当の氏を述べた者は、鍋の中の泥を探っても無事でしたが、虚偽を申し立てた者は、たちまちその手が焼けただれたと伝えられています。

允恭天皇はこうして氏姓を正しく定め、世の秩序を整えられました。

天皇は七十八歳で崩御され、御陵は河内の恵賀の長枝に営まれました。

遠飛鳥宮は、奈良県高市郡明日香村だとされています。

金波鎮漢紀武は、金は姓、波鎮漢は官位、紀武は名前という説と、波鎮漢紀が官位で、武が名前という説があります。

氏(うじ)は、主に血縁を中心とした集団で、同じ祖先を持つという意識を持つ集団、姓(かばね)は、ヤマト王権が氏に対して与えた臣(おみや)や連(むらじ)などの称号です。

大和の味白檮は、奈良県高市郡明日香村豊浦の甘樫丘とされ、甘樫坐(あまかしにます)神社のあたりで、盟神探湯が行われたとされています。

八十禍津日神は、多くの災厄をもたらす神のこと。

5世紀後半に造営された大阪府藤井寺市の市ノ山古墳が、允恭天皇の河内の恵賀の長枝の御陵に比定され、仲哀天応の恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)や応神天皇の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と同じ、古市古墳群の壮大な前方後円墳として伝わっています。

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

八十伴の緒の氏姓

天皇初め天つ日繼知らしめさむとせし時に、いなびまして、詔りたまひしく「我は長き病しあれば、日繼をえ知らさじ」と詔りたまひき。然れども大后より始めて、諸卿まへつぎみたち堅く奏すに因りて、天の下治らしめしき。この時、新羅しらぎ國主こにきし御調物みつぎもの八十一艘やそまりひとふね獻りき。ここに御調の大使、名は金波鎭漢紀武こみはちにかにきむといふ。この人藥のみちを深く知れり。かれ天皇が御病を治めまつりき。

ここに天皇、天の下の氏氏名名の人どもの、かばねたがあやまることを愁へまして、味白檮うまかし言八十禍津日ことやそまがつひさきに、玖訶瓮くかべを据ゑて、天の下の八十伴やそともの氏姓を定めたまひき。また木梨きなしかる太子ひつぎのみこの御名代として、輕部かるべを定め、大后の御名代として、刑部おさかべを定め、大后の弟田井たゐなかつ比賣の御名代として、河部かはべを定めたまひき。

天皇御年七十八歳ななそぢまりやつ(甲午の年正月十五日崩りたまひき。)御陵は河内かふち惠賀ゑが長枝がえにあり。

  • 大后(忍坂の大中津比賣)
  • 金波鎭漢紀武金が姓、武が名。波鎭漢紀は位置階級の称)
  • (ウヂは家の称号、カバネは家の階級であって朝廷から賜わるものである。家系を尊重した当時にあっては、これを社会組織の根本とした。しかるに長い間には、自然に誤る者もあり、故意に偽る者も出た)
  • 味白檮言八十禍津日飛鳥の地で、マガツヒの神を祀ってある所。この神の威力により偽れる者に禍を与えようとする。)
  • 玖訶瓮湯を涌かしてその中の物を探らせる鍋)
  • 天の下の八十伴多くの人々)
  • 河内惠賀長枝(大阪府南河内郡)