神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)とその兄・五瀬命(いつせのみこと)は、日向の高千穂の宮においてご相談されました。
「ここ日向は辺鄙で政を行うのに不便である。どこに国を定めれば天下を治められるだろうか。やはり東へ進むべきであろう」

こうしてお二人は軍勢を従えて日向を出発し、九州の北方へ向かわれました。
まず豊前の宇佐に到り、土地の宇佐都比古・宇佐都比売の二神が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を築き、酒宴を設けてもてなしました。
備前は現在の大分県。足一騰宮は、大分県宇佐市の妻垣神社の上宮のことです。

御祭神は、神武天皇のお母さまの玉依比売命。玉依比売が川中の岩の上にお姿を現され、信心を忘れさせないように、岩の上に足一つの印をつけ、標高241メートルの共鑰山(ともかきやま)、別名、妻垣山に騰がられました。

次いで筑前に入り岡田宮に一年滞在し、さらに安芸の多祁理宮(たけりのみや)に七年、備後の高島宮に八年おられました
『日本書紀』では、高千穂から一年足らずで畿内に至ると記されています。
竺紫の岡田の宮は、福岡県遠賀郡(おんがぐん)の遠賀川の河口の地、阿岐の国の多祁理の宮は、広島県安芸郡、吉備の高島の宮は、岡山県児島郡。

そこからさらに東へ船を進め、速吸の門に差しかかると、亀の甲に乗り釣りをしながらやってくる者に出会いました。

速吸の戸は、潮流の早い海峡。豊後水道。しかし、岡山県を出て難波に向うのために豊後水道を通ったとするは地理上不合理です。『日本書紀』では日向から直接、速吸の門に向かっています。

呼び寄せて「お前は誰か」と問うと「国つ神の宇豆毘古(うずひこ)です」と答えました。
「お前は海の道をよく知っているか」と問えば「よく知っています」と言い、「俺の供をするか」との問いに「お仕えします」と答えました。
そこで船から棹を差し出して宇豆毘古を引き入れ、「槁根津日子(さおねつひこ)」の名を与えました。

やがて船団は難波の津を経て、河内の草香邑(くさかむら)の白肩之津(しらかたのつ)に到着しました。
当時は大阪湾がさらに深く湾入し、大和の国の水を集めた大和川は、河内の国に入って、北流して淀川に合流していました。
孔舎衙村(くさかむら)は、大阪府中河内郡にあった村で、現在の東大阪市の北東端。白肩之津は、現在の東大阪市で、生駒山の西麓。
そこに生駒山の東登美の豪族、那賀須泥毘古(ながすねびこ)が兵を率いて待ち受けており、矢を射かけてきました。

伊波礼毘古命は船中から楯を取りだし、雨のように飛ぶ矢の中をくぐって上陸し、戦いました。そこでその土地を楯津(たてつ)と言います。今では、日下の蓼津と言っております。
この戦いで五瀬命は深い傷を負われ、「俺たちは日の神の御子であるのに、日に向かって戦ったのが良くなかった。これからは日を背にして戦おう」と言い、南へ回りました。

和泉の海で、手の血を洗ったので、その地を茅渟(ちぬ)と呼ぶようになりました。
しかし紀伊の男之水門(おのみなと)に至ると、徐々に傷の痛みが激しくなり、「つまらない者に傷を負わされて死ぬのは悔しい」と叫んでお隠れになりました。五瀬命の御陵は紀伊の亀山にあります。
日下の蓼津は、 現在の東大阪市日下町付近、生駒山の西麓だとされています。茅渟は、泉南市樽井付近。茅渟神社が鎮座しています。チヌ(黒鯛)の供養と釣りの安全を祈願するために、全国から釣り愛好家が訪れます。

紀の国の男の水門は、和歌山県の紀の川の河口、紀の国の亀山は、和歌山市和田。竈山(かまやま)神社が鎮座し、背後には、竈山墓(かまやまのはか)があり、宮内庁が五瀬命の墓に治定しています。

伊波礼毘古命は紀伊の熊野に至り、那智の滝を目指しました。

この滝は、熊野那智大社のご神体で、紀伊山地の東南部に位置する熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社を「熊野三山」と呼びます。


するとそこに大熊が忽然と現れて消え、その毒気にあたり、命も軍勢も皆気絶してしまいました。

そのとき熊野の高倉下(たかくらじ)が一振りの大刀を奉じて現れ、横たわる命のもとへ差し出しました。

命は目覚めて「随分寝たものだ」と言い、大刀を受け取ると、その威力によって熊野村の荒ぶる神々はことごとく倒れ、逆に味方の兵士たちは正気を取り戻しました。
命がその由来を問うと、高倉下は語りました。
「昨夜、夢に天照大神と高木神が現れ、建御雷神に向かって『葦原中国が騒がしい。我らの御子が苦しんでいる。かつて汝が平定した国であるから降って助けよ』と告げられました。すると建御雷神は『私が降らずとも、その時に用いた大刀があります。これを降ろしましょう。高倉下という者の倉の屋根を突き破って落とします』と言われ、今度は、私に向かって『お前は目が覚めたら、この大刀を受け取って、天の御子に奉れ』と申されました。朝目覚めて倉の中を見れば、果たして剣がありました。ゆえにお届けしたのです」

この剣は佐士布都神(さじふつのかみ)といい、後に天理市布留町の石上(いそのかみ)神宮の御神体となりました。

フツは剣の威力や物を斬る音です。
さらに高木神が雲の上から諭されました。

「天の御子よ、これより奥に進んではならぬ。荒ぶる神が多い。今、八咫烏を遣わす。それに従って進め」

すると八咫烏が現れ、命が後をついて行くと、吉野川の河口に至りました。

そこで筌(うえ)という竹で編んだ道具で魚を捕る贄持之子(にへもつのこ)という土地の神に出会い、

さらに進むと尻尾を持つ井氷鹿(ゐひか)という神が井戸から現れました。井戸は光を放っていました。

さらに山の中に入ると、尻尾のある石押分之子(いわおしわくのこ)という神が、岩を押し分けて現れ、「私は御子をお迎えに参りました」と申しました。

こうして命は尾を持つ神々を従え、険しい山々を踏み穿って、ついに大和の宇陀へと到られたのです。そのためここを宇陀の穿(うがち)と言います。
八咫烏のヤタは寸法で、大きな烏の意味。賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと)が八咫烏に化身しているとのこと。
「尻尾」は、尻尾のように後ろに垂れ下がった服装だったとされています。
宇陀の穿については、現在も奈良県宇陀市菟田野宇賀志という地名が存在しています。
古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)
一.神武天皇
東征
神倭伊波禮毘古の命、その同母兄五瀬の命と二柱、高千穗の宮にましまして議りたまはく、「いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、すなはち日向より發たして、筑紫に幸でましき。かれ豐國の宇沙に到りましし時に、その土人名は宇沙都比古、宇沙都比賣二人、足一騰の宮を作りて、大御饗獻りき。其地より遷りまして、竺紫の岡田の宮に一年ましましき。またその國より上り幸でまして、阿岐の國の多祁理の宮に七年ましましき。またその國より遷り上り幸でまして、吉備の高島の宮に八年ましましき。
- 日向(九州の東方)
- 豐國の宇沙(大分県宇佐)
- 足一騰の宮(柱が一本浮き上った宮殿)
- 竺紫の岡田の宮(福岡県遠賀郡の遠賀川の河口の地)
- 阿岐の國の多祁理の宮(広島県安芸郡)
- 吉備の高島の宮(岡山県児島郡)
速吸の門
かれその國より上り幸でます時に、龜の甲に乘りて、釣しつつ打ち羽振り來る人、速吸の門に遇ひき。ここに喚びよせて、問ひたまはく、「汝は誰ぞ」と問はしければ、答へて曰はく、「僕は國つ神なり」とまをしき。また問ひたまはく「汝は海つ道を知れりや」と問はしければ、答へて曰はく、「能く知れり」とまをしき。また問ひたまはく「從に仕へまつらむや」と問はしければ、答へて曰はく「仕へまつらむ」とまをしき。かれここに槁を指し度して、その御船に引き入れて、槁根津日子といふ名を賜ひき。(こは倭の國の造等が祖なり。)
- 打ち羽振り來る人(勢いよくやってくる人)
- 速吸の門(潮のさしひきの早い海峡。豊後水道。岡山県を出て難波に向うのに豊後水道を通ったとするは地理上不合理であるが、元来この一節は別に遊離していたものが挿入されたので、このような形になった。日本書紀では日向から出て直に速吸の門にかかっている)
五瀬の命
かれその國より上り行でます時に、浪速の渡を經て、青雲の白肩の津に泊てたまひき。この時に、登美の那賀須泥毘古、軍を興して、待ち向へて戰ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。かれ其地に號けて楯津といふ。今には日下の蓼津といふ。ここに登美毘古と戰ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が痛矢串を負はしき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戰ふことふさはず。かれ賤奴が痛手を負ひつ。今よは行き廻りて、日を背に負ひて撃たむ」と、期りたまひて、南の方より廻り幸でます時に、血沼の海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。其地より廻り幸でまして、紀の國の男の水門に到りまして、詔りたまはく、「賤奴が手を負ひてや、命すぎなむ」と男健して崩りましき。かれその水門に名づけて男の水門といふ。陵は紀の國の竈山にあり。
- 浪速の渡(難波の渡。当時は大阪湾が更に深く湾入し、大和の国の水を集めた大和川は、河内の国に入って北流して淀川に合流していた。それを溯上【そじょう】して河内に入ったのである)
- 青雲(枕詞)
- 白肩の津(大阪府中河内郡、生駒山の西麓)
- 登美の那賀須泥毘古(生駒山の東登美にいた豪族の主長)
- 血沼の海(大阪府泉南郡の海岸)
- 紀の國の男の水門(和歌山県、紀の川の河口)
- 紀の國の竈山(和歌山県海草郡)
熊野より大和へ
かれ神倭伊波禮毘古の命、其地より廻り幸でまして、熊野の村に到りましし時に、大きなる熊、髣髴に出で入りてすなはち失せぬ。ここに神倭伊波禮毘古の命焂忽にをえまし、また御軍も皆をえて伏しき。この時に熊野の高倉下、一横刀をもちて、天つ神の御子の伏せる地に到りて獻る時に、天つ神の御子、すなはち寤め起ちて、「長寢しつるかも」と詔りたまひき。かれその横刀を受け取りたまふ時に、その熊野の山の荒ぶる神おのづからみな切り仆さえき。ここにそのをえ伏せる御軍悉に寤め起ちき。かれ天つ神の御子、その横刀を獲つるゆゑを問ひたまひしかば、高倉下答へまをさく、「おのが夢に、天照らす大神高木の神二柱の神の命もちて、建御雷の神を召びて詔りたまはく、葦原の中つ國はいたく騷ぎてありなり。我が御子たち不平みますらし。その葦原の中つ國は、もはら汝が言向けつる國なり。かれ汝建御雷の神降らさね」とのりたまひき。ここに答へまをさく、「僕降らずとも、もはらその國を平けし横刀あれば、この刀を降さむ。(この刀の名は佐士布都の神といふ。またの名は甕布都の神といふ、またの名は布都の御魂。この刀は石上の神宮に坐す。)この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂を穿ちて、そこより墮し入れむとまをしたまひき。かれ朝目吉く汝取り持ちて天つ神の御子に獻れと、のりたまひき。かれ夢の教のまにま、旦におのが倉を見しかば、信に横刀ありき。かれこの横刀をもちて獻らくのみ」とまをしき。
- 熊野の村(和歌山県南方の海岸一帯)
- 大きなる熊(荒ぶる神が熊になって現れたので、その毒気を受けたとする)
- 焂忽にをえまし(病み疲れたまい)
- 天つ神の御子(神武天皇のこと。天つ神の御子として降下したとする)
- 不平みますらし(悩んで居られるらしい)
- 石上の神宮~布都の御魂(奈良県山辺郡の石上神宮。フツは剣の威力。物を斬る音という)
ここにまた高木の大神の命もちて、覺し白したまはく、「天つ神の御子、こよ奧つ方にな入りたまひそ。荒ぶる神いと多にあり。今天より八咫烏を遣はさむ。かれその八咫烏導きなむ。その立たむ後より幸でまさね」と、のりたまひき。かれその御教のまにまに、その八咫烏の後より幸でまししかば、吉野河の河尻に到りましき。時に筌をうちて魚取る人あり。ここに天つ神の御子「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は贄持の子」とまをしき。(こは阿陀の鵜養の祖なり。)其地より幸でまししかば、尾ある人井より出で來。その井光れり。「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は井氷鹿」とまをしき。(こは吉野の首等が祖なり。)すなはちその山に入りまししかば、また尾ある人に遇へり。この人巖を押し分けて出で來。「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は石押分の子、今天つ神の御子幸でますと聞きつ。かれ、まゐ向へまつらくのみ」とまをしき。(こは吉野の國巣が祖なり。)其地より蹈み穿ち越えて、宇陀に幸でましき。かれ宇陀の穿といふ。
- 八咫烏(大きな烏。頭八つの烏とするは誤。ヤタは寸法。ヤアタの鏡のヤアタに同じ。この烏は鴨の建角身の命【かもたけつぬみのみこと】という豪傑だという)
- 吉野河の河尻(大和の国内での吉野川の下流)
- 筌(竹で編んで河に漬けて魚を取る漁法)
- 尾ある人(後部に垂れたもののある服裝の人)
- 宇陀(奈良県宇陀郡。大和の国の東部)