履中天皇の御子・市辺之忍歯王、その御子である袁祁之石巣別命(をけのいはすわけのみこと)は、のちに第二十三代顕宗天皇として、大和の近飛鳥宮において八年間、天下をお治めになりました。
天皇は石木王の娘・難波王(なにわのみこ)を皇后に迎えられましたが、御子はありませんでした。
顕宗天皇は、父・市辺之忍歯王の御骨を探し求められました。そこへ近江から一人の賤しい老婆が現れ、「忍歯王の御骨を埋めた場所を存じております。
王には八重歯があり、その先が三つに割れておられました。それで見分けがつきましょう」と申しました。
天皇は人々に命じて老婆の指し示す場所を掘らせ、確かに父の御骨を見いだされました。これを蚊屋野の東の山に葬り、かつて狩を勧めた韓袋の子孫に墓守を命じました。
帰還後、天皇は老婆を召され、「大事な場所をよく覚えていた」とお褒めになり、「置目老媼(おきめのおみな)」の名を授けました。老婆は宮中に召され、篤く遇されました。天皇は宮の戸に鈴を掛け、置目を召す際にはその鈴を鳴らされました。
天皇は歌を詠まれました。
――茅草の原や小谷を過ぎ、鈴の鳴る音がする。置目がやって来るのだ――
やがて置目が「年老いたので故郷へ帰りたい」と願い出ると、天皇はこれを許し、見送りの折に歌を詠まれました。
――近江の置目よ、明日からは山に隠れてもう見えぬのか――
その後、天皇はかつて自分と兄が逃亡の折に食物を奪った豚飼いの老人を探し出し、飛鳥川の河原で斬罪に処されました。
さらにその一族の膝の筋を断たせたため、子孫は大和に上るとき必ず跛行したと伝えられます。
その地を志米須(しめす)と呼びます。
また天皇は父を殺した雄略天皇を深く恨み、その御陵を壊そうと人を遣わしました。しかし兄・意富祁命(おおけのみこ)が申し上げました。
「仇とはいえ雄略天皇は叔父にあたり、また天下を治められた天皇です。その御陵を徹底的に壊せば後の世にそしられましょう。ゆえに陵の土を少し掘り返して復讐の印としました」
これを聞いた顕宗天皇は「道理である」と納得されました。
やがて顕宗天皇は三十八歳で崩御されました。御陵は片岡の石坏(いわつき)の岡の上にあります。
その後、兄・意富祁命が第二十四代仁賢天皇として即位され、大和の石上広高宮にお移りになりました。皇后には雄略天皇の御子・春日大郎女を立てられました。
仁賢天皇のお次には、皇子、小長谷若雀命(こはつせのわかささぎのみこと)が武烈天皇としてお位におつきになりました。
そのお後には、継体、安閑(あんかん)、宣化、欽明、敏達(びたつ)、用明、崇峻、推古の諸天皇が次々にお位にお上りになりました。
小長谷若雀命(をはつせのわかさざきのみこと)、武烈天皇、大和の長谷の列木宮(なみきのみや)においでになって、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。御陵は片岡の石坏(いわつき)の岡にあります。
品太王(ほむだのおう)の五世の孫の袁本杼命(をほどのみこと)、継体天皇、大和の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)においでになって、天下をお治めなさいました。天皇は御年四十三歳にお隠れになりました。御陵は三島藍陵(みしまのあいののみささぎ)です。
御子の広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、安閑天皇、大和の勾金橋宮 (まがりのかなはしのみや)においでになって、天下をお治めなさいました。この天皇は御子がございませんでした。御陵は河内の古市の高屋の村にあります。
弟の建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)、宣化天皇、大和の檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)においでになって、天下をお治めなさいました。
弟の天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと)、欽明天皇、大和の師木島大宮においでになって、天下をお治めなさいました。
御子の沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)、敏達天皇、大和の他田宮(おさだのみや)においでになって、十四年天下をお治めなさいました。御陵は河内の科長(しなが)にあります。
弟の橘豊日命(たちばなとよひのみこと)、用明天皇、大和の池の辺の宮においでになって、三年天下をお治めなさいました。御陵は初めは磐余の掖上にありましたが、後に科長の中の陵にお遷し申し上げました。
弟の長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)の天皇、崇峻天皇、大和の倉椅柴垣宮(くらはしのしばかきのみや)においでになって、四年天下をお治めなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。
妹の豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)、推古天皇、大和の小治田宮(おはりだのみや)においでになって、三十七年天下をお治めなさいました。御陵は初めは大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお遷し申し上げました。