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古事記現代語訳

古事記現代語訳(26)沙本毘古王の謀反

第十一代・垂仁天皇、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)は、大和の師木の玉垣の宮において天下をお治めになりました。

天皇は沙本毘古王(さほびこのみこ)の妹、沙本毘売命(さほひめのみこと)を皇后にお召しになりましたが、これが、大きな悲劇を招くこととなります。

あるとき、沙本毘古王は妹に向かって問いかけました。

「おまえは、夫と兄とでは、どちらが大切か」

皇后は、その場の成り行きで「お兄さまのほうが大切です」と答えてしまいました。

すると王は鋭い小刀を渡して、「本当に私を大切に思うなら、天皇がお休みの折にこれで刺し殺せ。そして俺たち兄妹で天下を治めよう」と迫りました。

垂仁天皇はこの謀反をご存じなく、ある夜、皇后の膝を枕に安らかにお眠りになりました。

皇后はそのとき短刀を抜き、三度まで天皇の首に振り下ろそうとしましたが、夫を思う気持ちが勝り、殺めることができず、涙を流して手を止めました。

その涙が天皇の顔に落ち、天皇は目を覚まされました。

「不思議な夢を見た。佐保の方からにわか雨が降り、私の顔を濡らした。また錦色の小蛇が首に巻きついてきた。これは何の兆しだろうか?」

皇后は隠しきれず、兄の企みをすべて打ち明けました。

天皇は「危うく命を落とすところであった」と驚き、軍を起こして沙本毘古王を討たせました。

王は稲束を積んで砦を築き、籠城して抗いました。

このとき皇后は、兄を思う心から、裏門より砦に駆け込みました。

すでに三年も愛情をそそぎ、自分の子を身ごもっていた皇后を天皇は深くお憐れみになり、攻撃を控えるよう命じました。

やがて皇后は砦の中で皇子を出産し、「もしこの御子を天皇のお子としてお認めくださるなら、どうぞお育てください」と城外へ差し出しました。

天皇は皇后をも奪還したいと考え、屈強の兵に「子を受け取るとき、母も捕えて連れ出せ」と命じました。

だが皇后はすでにその策を見抜いており、髪を剃ってその髪で頭を覆い、玉の腕輪の緒を腐らせ、衣も酒で朽ちさせていました。

兵が髪を掴めば抜け落ち、腕を掴めば緒が切れ、衣を引けば破れ去り、ついに皇后を取り逃がしました。

御子のみが助けられ、皇后は砦に残りました。

天皇は「髪も緒も衣も頼りとならぬ」と嘆き、玉の腕輪を作った玉作部を罰して領地を没収しました。

その後、天皇は皇后に使いを送り、「子供の名前は母がつけるものだ。この御子の名は何とすべきか」と問いました。

皇后は、「炎の中にお生まれになりましたので、本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)とお名付けください」と答えました。ほむちとは、「火」を意味する「ほ」に尊称の「むち」を加えた語です。

さらに、「乳母を置き、養育役を定めてお育てください」とも申し上げました。

天皇が「では、俺の世話は誰がするのか」と問うと、皇后は「丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのおう)の娘、兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹をお召しください」と答えました。

やがて天皇は軍を進め、ついに沙本毘古王を討ち果たしました。皇后もまた、炎立つ砦に身を投じて果てられました。

奈良市法蓮町の狭岡神社には、狭穂姫伝承の鏡池があります。ここは、沙本兄妹の実家があった場所で、毘売が鏡代わりにこの池を遣っていたという伝承が残っています。

狭岡神社から徒歩圏内に、少名毘古那神常陸(ひたち)神社があり、境内に佐保姫大神を祀る可愛い祠があります。