ある日のこと。
大国主命が出雲の御大(みほ)の岬、島根県松江市の美保関(みほのせき)とされる、にいらっしゃったとき、海の向こうから一人の小さな小さな神が船で漕ぎ寄せて来ました。

その船は、ががいも(蔓芋)の鞘を割って作った小さな舟で、着物は灯取虫、蛾、の皮を丸ごと剥いだものでした。
大国主命がその神に「あなたはどなたですか」と尋ねても、神は口を閉ざしたまま答えません。
お供の神々に尋ねても誰もわからず困っていると、そこへヒキガエルの多邇具久(たにぐく)が現れ、「そのことなら久延毘古(くえひこ)がきっと知っているでしょう」と言いました。

久延毘古とは田の中に立つ案山子で、歩くことはできませんが、天下のことをすべて知っている物知りな神でした。古代から智恵の象徴とされました。

さっそく呼び寄せて尋ねると、久延毘古はこう答えました。
「あの方は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と申します」
大国主命はそれを神産巣日神に申し上げました。すると神は、
「確かにあれは私の子です。子どもの中でも、私の手の股からこぼれ落ちた子です。大国主命よ、あなたは少名毘古那神と兄弟となり、この国を共に作り固めよ」

とおおせになりました。
こうして大国主命と少名毘古那神は力を合わせ、国を造り整えていきました。
『日本書紀』によれば、少名毘古那神は人々や家畜の病の治療法を定め、医療・穀物・酒造・温泉などあらゆる産業を導いた神とされています。
有馬温泉の起源も、彼が薬草を探して巡った折に、傷ついた烏が赤い湯で癒えたことに由来すると伝えられます。

『伊予風土記逸文』では、道後温泉の湯で大国主命の病を癒したとも語られています。

『伊豆風土記』にも、
「天孫降臨の前に、大己貴命(おおなむちのみこと)は、秋津の国(=日本)の人々が若くして亡くなるのを哀れに思い、少彦名命に『薬として効く温泉の技術』を授けました。そして伊豆の神の湯にこれを残された。この湯は普通のお湯ではなく、昼夜に二度激しく沸き立って噴き出す。その湯を桶に汲んで体を浸せば、あらゆる病が治った」

この記述は、熱海温泉で最も古くから知られた源泉「大湯(おおゆ)」を指すものだと考えられています。
さらに二人は兄弟のように仲が良く、播磨の国を旅していたとき、奇妙な我慢比べをして遊びました。
少名毘古那神は重い粘土(堲・はに)を担ぎ、大国主命はお手洗いを我慢して歩きました。
数日後、大国主命が笹の茂みにしゃがみ込んで用を足すと、少名毘古那神も「僕ももう無理だ」と粘土を投げ捨て、二人で大笑いしました。
その粘土が丘となり「堲岡(はにおか)」と呼ばれ、大国主命が用を足した笹は跳ね返って着物を汚したため、その地は「波自賀村(はじかのむら)」と呼ばれるようになったのです。
現在の兵庫県神崎郡市川町屋形。標高507.8メートルの初鹿野山(はしかのやま)という山があります。

けれども少名毘古那神は、海の彼方の常世国へ渡って行き、姿を消してしまいました。
薬の街である大阪市中央区道修町にある「少彦名神社(神農さん)」は、この少名毘古那神と、医療と農耕の知識を古代の人々に広めた三皇五帝の一人、神農炎帝(しんのうえんてい)を祀っています。

大国主命は、少名毘古那神が常世国に渡った後、しばらく思い悩んでおっしゃいました。

「私は一人では、とても思いどおりにこの国を造り固めていくことはできない。いったい誰と力を合わせればよいのだろうか」
そのとき、不思議なことに、海の上一面がきらきらと光り輝き、その光の中から一柱の神が近づいてこられました。
その神は大国主命に向かって、こうお告げになりました。
「私を手厚く祀ってくれるなら、お前と一緒にこの国を造り固めてやろう。だが、そうでなければ、この国を治めることは難しいだろう」
大国主命が「それでは、どのようにお祀り申せばよいのでしょうか」とお尋ねになると、神は答えました。
「私を大和の国の東方の青い山の上に祀るがよい」

この御諸山(みもろやま)に鎮まる神こそ、大物主神であります。
大物主神は、奈良県桜井市の大神神社にお祀りされている神です。
『日本書紀』によれば、大物主神は大国主命の「幸魂(さちみたま)」と「奇魂(くしみたま)」であると記されています。神の霊魂には四つの働きがあるとされ、
荒魂(あらみたま)は勇ましく積極的な側面、和魂(にぎみたま)は穏やかで調和的な側面、幸魂は人々に幸福や豊かさを授ける働き、奇魂は霊妙な力や奇跡をもたらす働き、とされています。
こうして大国主命は大物主神を祀り、その加護を得て、共に国造りを進めていかれました。
古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)
少名毘古那の神
かれ大國主の神、出雲の御大の御前にいます時に、波の穗より、天の羅摩の船に乘りて、鵝の皮を内剥ぎに剥ぎて衣服にして、歸り來る神あり。ここにその名を問はせども答へず、また所從の神たちに問はせども、みな知らずと白しき。ここに多邇具久白して言さく、「こは久延毘古ぞかならず知りたらむ」と白ししかば、すなはち久延毘古を召して問ひたまふ時に答へて白さく、「こは神産巣日の神の御子少名毘古那の神なり」と白しき。かれここに神産巣日御祖の命に白し上げしかば、「こは實に我が子なり。子の中に、我が手俣より漏きし子なり。かれ汝葦原色許男の命と兄弟となりて、その國作り堅めよ」とのりたまひき。かれそれより、大穴牟遲と少名毘古那と二柱の神相並びて、この國作り堅めたまひき。然ありて後には、その少名毘古那の神は、常世の國に度りましき。かれその少名毘古那の神を顯し白しし、いはゆる久延毘古は、今には山田の曾富騰といふものなり。この神は、足はあるかねども、天の下の事を盡に知れる神なり。
- 出雲の御大の御前(島根県八束郡美保の岬)
- 波の穗(波の高みに乗って)
- 天の羅摩の船(カガミはガガイモ科の蔓草。ガガイモ。その果実は莢【さや】であり、割れると白い毛のある果実が飛ぶ。それをもとにした神話)
- 鵝の皮を内剥ぎに剥ぎて(蛾の皮をそっくり剥いで)
- 多邇具久(ひきがえる。谷潜りの義)
- 久延毘古(かかし。こわれた男の義)
- 常世の國(海外の国)
- 曾富騰(かかしに同じ)
御諸の山の神
ここに大國主の神愁へて告りたまはく、「吾獨して、如何かもよくこの國をえ作らむ。いづれの神とともに、吾はよくこの國を相作らむ」とのりたまひき。この時に海を光らして依り來る神あり。その神の言りたまはく、「我が前をよく治めば、吾よくともどもに相作り成さむ。もし然あらずは、國成り難けむ」とのりたまひき。ここに大國主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状はいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、「吾をば倭の青垣の東の山の上に齋きまつれ」とのりたまひき。こは御諸の山の上にます神なり。
- 我が前をよく治めば(わたしをよく祀ったなら。神が現れていう時のきまった詞)
- 倭の青垣の東の山の上に齋きまつれ(大和の国の東方の青い山の上に祀れ)
- 御諸の山の上にます神(奈良県磯城郡三輪山の大神神社の神。その神社の起原神話)