御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、すなわち第十代・崇神天皇は、大和の師木(しき)の水垣の宮において天下をお治めになりました。
この御代には、流行り病が蔓延し、人民はほとんど絶え果てようとしました。
崇神天皇は深く憂慮され、身を清めて神様に祈られたところ、夢に三輪山の大物主大神が現れてこう告げられました。
「この疫病は私の祟りによるものだ。意富多多泥古(おおたたねこ)に私を祀らせれば、祟りは鎮まり、国も安らかになるであろう。」
天皇は急ぎ使者を四方に走らせ、やがて河内の美努(みの)の里で意富多多泥古を見つけ出し、宮中に召しました。
天皇が「あなたは誰の子か」と尋ねると、意富多多泥古はこう答えました。
「私は大物主大神の血を継ぐ建甕槌命の子でございます。陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘、活玉依比売(いくたまよりひめ)が大物主大神と結ばれ、4代目の子孫として生まれたのが私でございます。」
その昔、大変美しい活玉依比売のもとへ、夜な夜な立派な姿の若者が訪ねてきました。
やがて比売は身ごもりましたが、男は明け方には忽然と姿を消し、それが誰ともわからぬままでした。
親は不審に思い、ある夜、娘に「赤土を床に散らし、麻糸を通した針を訪ねてきた男の着物の裾に刺すように」と命じました。
翌朝、糸は戸口の鍵穴を抜け、外へと続いており、残った麻糸はただ三巻きのみでした。その糸をたどると三輪山の社へ至り、男の正体が大物主大神であるとわかったのです。その子孫が、意富多多泥古ということです。
ちなみに、麻糸が三巻き残っていたことが、三輪山の名前の由来となっています。この意富多多泥古は、神(みわ)の君・鴨の君の祖先です。
崇神天皇は大いに喜び、この意富多多泥古を三輪山の神主とし、大物主大神を丁重にお祀りさせました。
さらに、伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて、祭祀に用いる器をたくさん作らせ、天つ神から国つ神に至るまでが、ことごとくお供え物を奉られました。
宇陀の墨坂神には赤い盾と赤い矛をお供えし、大坂の神には黒い盾と黒い矛をお供えしました。また、坂の御尾神や河瀬神にも、残すことなくすべてに供物を奉りました。
これは、流行り病を終息させるため、全国の神々を祀る神社制度を整えさせたということになります。
その結果、たちまち疫病は鎮まり、国は平安を取り戻しました。
崇神天皇にはお子さまが十二人おありになりましたが、その中で皇女・豊鍬入日売命(とよすきいりひめ)は、初めて伊勢に天照大御神を祀り、これが斎宮(さいぐう)の始まりとなりました。
斎宮とは、天皇に代わって伊勢神宮に仕える未婚の皇女(内親王または女王)で、独身時代の黒田清子さんのような職業です。
また、皇子・倭日子命の葬儀では、人垣すなわち殉葬の風習が行われたとも伝えられています。
さらに伝承によれば、意富多多泥古の祖先にまつわる出来事として、大物主大神が矢の姿に変じて乙女のもとに通い、子をもうけたと語られます。
その血脈が続き、やがて国を救う神主を生んだのです。
日本書紀では、夢で大物主大神の声を聞いたのは、崇神天皇ではなく、伯母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)でした。
百襲姫は、大物主大神の妻とになりましたが、大物主大神は夜にしか現れず、百襲姫命がお姿を見たいと頼むと、翌朝、櫛笥の中に小蛇の姿で現れました。
百襲姫命が大声を上げると、大物主大神は御諸山、現在の三輪山に消えてしまいました。
百襲姫命は座り込んでしまいましたが、箸が陰部を突き、それがもとで亡くなってしまいます。
百襲姫命は奈良県桜井市の箸墓古墳に葬られました。この古墳は、昼は人が作り、夜は神が作ったと伝わっています。
邪馬台国畿内派のなかには、百襲姫命こそ邪馬台国の女王卑弥呼だと主張する人もいます。
三輪山の山麓に位置する大神神社は、三輪山をご神体とし、本殿がありません。
大神神社の摂社の一つ檜原(ひばら)神社は、天照大神が伊勢に鎮座する前に祀られた地とされ「元伊勢」とも呼ばれています。檜原神社も三輪山を神体山として、三ツ鳥居を通して奥の御神体を拝むようになっています。ここはかつては、八咫鏡も祀られていたと伝わっています。
同じく摂社の狭井神社からは、ご神体の三輪山に登拝できます。薬井戸の「御神水」は諸病に効くといわれています。
――このようにして、大物主大神の祟りは鎮まり、崇神天皇の御代は安泰を迎えたのです。
崇神天皇以降の天皇は、実在したのではないかという説が有力です。