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古事記現代語訳

古事記現代語訳(24)三輪山の大物主の祟り

御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、つまり、第十代・崇神天皇は、大和の師木(しき)の水垣の宮において天下をお治めになりました。

師木の水垣の宮は、奈良県桜井市金屋だとされ、志貴御縣坐神社(しきみあがたにますじんじゃ)「崇神天皇磯城瑞籬宮(みずかきのみや)跡」の石碑があります。

この御代には、流行り病が蔓延し、人民はほとんど絶え果てようとしました。

崇神天皇は深く憂慮され、身を清めて神様に祈り床に就いたところ、夢に三輪山の大物主大神が現れてこう告げられました。

「この疫病は私の祟りによるものだ。意富多多泥古(おおたたねこ)に私を祀らせれば、祟りは鎮まり、国も安らかになるであろう」

天皇は急ぎ使者を四方に走らせ、やがて河内の美努(みの)の里で意富多多泥古を見つけ出し、宮中に召しました。

河内の美努(みの)の里は、大阪府八尾市上之島付近とされています。

一方、日本書紀では、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)としています。こちらは、堺市を中心とした陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)辺りになります。

天皇が「あなたは誰の子か」と尋ねると、意富多多泥古はこう答えました。

「私は大物主大神の血を継ぐ建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子でございます。陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘、活玉依比売(いくたまよりひめ)が大物主大神と結ばれ、4代目の子孫として生まれたのが私でございます。」

その昔、大変美しい活玉依比売のもとへ、夜な夜な立派な姿の若者が訪ねてきました。

やがて比売は身ごもりましたが、男は明け方には忽然と姿を消し、それが誰ともわからぬままでした。

親は不審に思い、ある夜、娘に「赤土を床に散らし、麻糸を通した針を訪ねてきた男の着物の裾に刺すように」と命じました。

翌朝、糸は戸口の鍵穴を抜け、外へと続いており、残った麻糸はただ三巻きのみでした。その糸をたどると三輪山の社へ至り、男の正体が大物主大神であるとわかったのです。その子孫が、意富多多泥古ということです。

ちなみに、麻糸が三巻き残っていたことが、三輪山の名前の由来となっています。この意富多多泥古は、神(みわ)の君・鴨の君の祖先です。

崇神天皇は大いに喜び、この意富多多泥古を三輪山の神主とし、大物主大神を丁重にお祀りさせました。

さらに、伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて、祭祀に用いる器をたくさん作らせ、天つ神から国つ神に至るまでが、ことごとくお供え物を奉られました。

宇陀の墨坂神には赤い盾と赤い矛をお供えし、大坂の神には黒い盾と黒い矛をお供えしました。また、坂と河の神にも、残すことなくすべてに供物を奉りました。

「宇陀の墨坂神」は、宇陀市榛原萩原に鎮座する「墨坂神社」、「大坂の神」は、奈良県香芝市逢坂の「大坂山口神社」だとされています。

神に武器を奉って、魔物が入るのを防ごうとしています。

流行り病を終息させるため、全国の神々を祀る神社制度を整えさせたということになります。

その結果、たちまち疫病は鎮まり、国は平安を取り戻しました。

崇神天皇にはお子さまが十二人おありになりましたが、その中で皇女・豊鍬入日売命(とよすきいりひめ)は、初めて伊勢に天照大御神を祀り、これが斎宮(さいぐう)の始まりとなりました。

斎宮とは、天皇に代わって伊勢神宮に仕える未婚の皇女(内親王または女王)で、独身時代の黒田清子さんのような職業です。

また、皇子・倭日子命の葬儀では、人垣、つまり、殉葬の風習が行われたとも伝えられています。

さらに伝承によれば、意富多多泥古の祖先にまつわる出来事として、大物主大神が矢の姿に変じて乙女のもとに通い、子をもうけたと語られます。

その血脈が続き、やがて国を救う神主を生んだのです。

『日本書紀』では、夢で大物主大神の声を聞いたのは、崇神天皇ではなく、伯母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)でした。

百襲姫は、大物主大神の妻とになりましたが、大物主大神は夜にしか現れず、百襲姫命がお姿を見たいと頼むと、翌朝、櫛笥の中に小蛇の姿で現れました。

百襲姫命が大声を上げると、大物主大神は御諸山、現在の三輪山に消えてしまいました。

百襲姫命は座り込んでしまいましたが、箸が陰部を突き、それがもとで亡くなってしまいます。

百襲姫命は奈良県桜井市の箸墓古墳に葬られました。この古墳は、昼は人が作り、夜は神が作ったと伝わっています。

邪馬台国畿内派のなかには、百襲姫命こそ邪馬台国の女王卑弥呼だと考える人もいます。

三輪山の山麓に位置する大神神社は、三輪山をご神体とし、本殿がありません。

大神神社の摂社の一つ檜原(ひばら)神社は、天照大神が伊勢に鎮座する前に祀られた地とされ「元伊勢」とも呼ばれています。檜原神社も三輪山を神体山として、三ツ鳥居を通して奥の御神体を拝むようになっています。ここはかつては、八咫鏡も祀られていたと伝わっています。

同じく摂社の狭井神社からは、ご神体の三輪山に登拝できます。薬井戸の「御神水」は諸病に効くといわれています。

このようにして、大物主大神の祟りは鎮まり、崇神天皇の御代は安泰を迎えたのです。

崇神天皇以降の天皇は、実在したのではないかという説が有力です。

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

美和の大物主

この天皇の御世に「役病えやみさはに起り、人民おほみたから盡きなむとしき。ここに天皇愁歎うれへたまひて、神牀かむとこにましましける夜に、大物主おほものぬし大神おほかみ、御夢に顯はれてのりたまひしく、「こはが御心なり。かれ意富多多泥古おほたたねこをもちて、我が御前に祭らしめたまはば、神の起らず、國も安平やすらかならむ」とのりたまひき。ここを以ちて、驛使はゆまづかひ四方よもあかちて、意富多多泥古おほたたねこといふ人を求むる時に、河内の美努みのの村にその人を見得て、たてまつりき。ここに天皇問ひたまはく、「いましは誰が子ぞ」と問ひたまひき。答へて白さく「は大物主の大神、陶津耳すゑつみみの命が女、活玉依いくたまより毘賣に娶ひて生みませる子、名は櫛御方くしみかたの命の子、飯肩巣見いひがたすみの命の子、建甕槌たけみかづちの命の子、やつこ意富多多泥古」とまをしき。

  • 神牀(神に祈って寝る床。夢に神意を得ようとする)
  • 神の起らず(神のたたり)
  • 驛使(馬に乗って行く使)
  • 河内の美努(大阪府中河内郡。日本書紀には茅渟【ちぬ】の県の陶【すえ】の村としている。これは和泉の国である)

ここに天皇いたく歡びたまひて、詔りたまはく、「天の下平ぎ、人民おほみたから榮えなむ」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古の命を、神主かむぬしとして、御諸山に、意富美和おほみわの大神の御前をいつき祭りたまひき。また伊迦賀色許男いかがしこをの命に仰せて、天の八十平瓮やそひらかを作り、天つ神くにかみの社を定めまつりたまひき。また宇陀うだ墨坂すみさかの神に、赤色の楯矛たてほこを祭り、また大坂おほさかの神に、墨色の楯矛を祭り、またさか御尾みをの神、かはの神までに、悉に遺忘おつることなく幣帛ぬさまつりたまひき。これに因りて悉にみて、國家みかど安平やすらぎき。

  • 神主(神のよりつく人)
  • 御諸山(奈良県磯城郡の三輪山)
  • 天の八十平瓮(多くの平たい皿)
  • 宇陀墨坂の神(奈良県宇陀郡。大和の中央部から見て東方の通路の坂)
  • 赤色の楯矛を祭り(奉ることによって祭をする。神に武器を奉って魔物の入り来るのを防ごうとする思想)
  • 大坂の神(奈良県北葛城郡二上山の北方を越える坂。大和の中央部から西方の坂)

この意富多多泥古といふ人を、神の子と知れる所以ゆゑは、上にいへる活玉依いくたまより毘賣、それ顏好かりき。ここに壯夫をとこありて、その形姿かたち威儀よそほひ時にたぐひ無きが、夜半さよなかの時にたちまち來たり。かれ相感でて共婚まぐはひして、住めるほどに、いまだ幾何いくだもあらねば、その美人をとめはらみぬ。

ここに父母、そのはらめる事を怪みて、その女に問ひて曰はく、「いましはおのづからはらめり。ひこぢ無きにいかにかもはらめる」と問ひしかば、答へて曰はく、「うるはしき壯夫をとこの、その名も知らぬが、ごとに來りて住めるほどに、おのづからにはらみぬ」といひき。ここを以ちてその父母、その人を知らむとおもひて、その女にをしへつらくは、赤土はにを床の邊に散らし、卷子紡麻へそをを針にきて、その衣のすそに刺せ」とをしへき。かれ教へしが如して、旦時あしたに見れば、針をつけたるは、戸の鉤穴かぎあなよりき通りて出で、ただのこれるは、三勾みわのみなりき。

  • 赤土を床の邊に散らし、卷子紡麻を針にきて、その衣のに刺せ」とへき(人間ならざる者の正体を見現すために行う。ヘソヲは糸巻にまいた麻)
  • れる(糸巻に残った麻)

ここにすなはち鉤穴より出でし状を知りて、絲のまにまに尋ね行きしかば、美和山に至りて、神の社に留まりき。かれその神の御子なりとは知りぬ。かれその三勾みわのこれるによりて、其地そこに名づけて美和みわといふなり。この意富多多泥古の命は、みわの君、鴨の君が祖なり。