ある時、雄略天皇は葛城山にお登りになりました。
その折、お供の人々には、みな赤い紐を付けた青摺(あおずり)の装束をいただき、揃って身に着けていました。
ところが、ふと遠くの山の尾根を見やると、そこにも立派な行列があり、従者たちも同じく赤い紐の青摺の衣をまとい、まるで天皇のご行列と寸分違わぬ姿で進んでいるのが見えました。
「赤い紐の付いた藍染めの衣」については、仁徳天皇が、八田若郎女に嫉妬して、奴理能美(ぬりのみ)の家に行ってしまった皇后の石之日売を連れ戻すために派遣した口子と同じ服装です。
天皇は怪しんで人を遣わし、声をかけさせました。
「この国には、私を除いて君主はないはずだ。それなのに私たちと同じ姿で従者を率いるとは、おまえはいったい何者か」
すると向こうからも、まったく同じ言葉を返してきました。
天皇は激しくお怒りになり、弓に矢をつがえました。お供の者たちも皆矢をつがえます。
すると、相手方もまた矢を構えて応じました。
その緊迫した中、天皇は言葉をかけられました。
「よろしい、ならば互いに名を名乗り合い、名乗った上で矢を放とう!」
すると返事がありました。
「私が先に答えよう。私は悪しきことにも一言、善きことにも一言で示す神、葛城の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)だ。私の一言で、吉凶が定まる」
これを聞いた雄略天皇は、驚き恐れ、すぐに矢を収めて申されました。
「恐れ多いことです。まさか大神様が、御姿を現されるとは思いもよりませんでした」
そして大刀や弓矢をはじめ、従者たちが着ていた青摺の衣まですべて脱がせて献じ、伏し拝みました。
一言主大神は大いに喜び、手を打ってその贈り物をお受けになりました。
その後、雄略天皇がご還幸になる時にはいつも、一言主大神みずから山の麓まで降りて来て、はるばる長谷(はつせ)の山口までお見送りになったと伝えられています。
この一言主をお祀りしている神社には、茨城県常総市の一言主神社、奈良県御所市の葛城一言主神社などがあります。
長谷の山口は、雄略天皇がお宮である泊瀬朝倉宮のことです。泊瀬朝倉宮は、奈良県桜井市黒崎、奈良県桜井市黒崎、岩坂、脇本遺跡あたり。
古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)
葛城山②一言主
またある時、天皇葛城山に登りいでます時に、百官の人ども、悉に紅き紐著けたる青摺の衣を給はりて著たり。その時にその向ひの山の尾より、山の上に登る人あり。既に天皇の鹵簿に等しく、またその束裝のさま、また人どもも、相似て別れず。ここに天皇見放けたまひて、問はしめたまはく、「この倭の國に、吾を除きてまた君は無きを。今誰人かかくて行く」と問はしめたまひしかば、すなはち答へまをせるさまも、天皇の命の如くなりき。ここに天皇いたく忿りて、矢刺したまひ、百官の人どもも、悉に矢刺しければ、ここにその人どももみな矢刺せり。かれ天皇また問ひたまはく、「その名を告らさね。ここに名を告りて、矢放たむ」とのりたまふ。ここに答へてのりたまはく、「吾まづ問はえたれば、吾まづ名告りせむ。吾は惡事も一言、善事も一言、言離の神、葛城の一言主の大神なり」とのりたまひき。天皇ここに畏みて白したまはく、「恐し、我が大神、現しおみまさむとは、覺らざりき」と白して、大御刀また弓矢を始めて、百官の人どもの服せる衣服を脱がしめて、拜み獻りき。ここにその一言主の大神、手打ちてその捧物を受けたまひき。かれ天皇の還りいでます時、その大神、山の末にいはみて、長谷の山口に送りまつりき。かれこの一言主の大神は、その時に顯れたまへるなり。
- 山の尾(尾は山の稜線)
- 天皇の鹵簿に等しく(天皇の行列と同樣に)
- 吾まづ問はえたれば~葛城の一言主の大神なり(わしは凶事も一言、吉事も一言で、きめてしまう神の、葛城の一言主の神だ。この神の一言で、吉凶が定まるとする思想。これは託宣に現れる神であるが、この時に現實に出たとするのである)
- 現しおみまさむとは、覺らざりき(現実のお姿があろうとは思いませんでした。ウツシは現実にある意の形容詞。オミは相手の敬称。この語、原文「宇都志意美」。従来、現し御身の義とされたが、美はミの甲類の音で、身の音と違う)
- 山の末にいはみて(山のはしに集まって)
- 長谷の山口(天皇の皇居である)