雄略天皇の御子、白髪大倭根子命(しらがのやまとねこのみこと)は第二十二代清寧天皇として、大和の磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮においでになり、天下をお治めになりました。
しかし清寧天皇は、生涯に皇后をお迎えになることなく、御子もお持ちになりませんでした。
そのため御名にちなみ「白髪部」を定められましたが、やがて天皇は崩御されました(484年)。
御子がいらっしゃらなかったため、次に帝位を継ぐべき御方は見つからず、朝廷は大いに惑いました。
そこで人々は皇統の血筋を懸命に探し求め、市辺之忍歯王(いちのべのおしはのおう)の妹、忍海郎女(おしぬみのいらつめ)、またの名を飯豊王(いいとよのおう)が、大和葛城の忍海(おしぬみ)高木の角刺宮(つのさしのみや)においでになることを知りました。
そこで飯豊王に、一時的に政(まつりごと)をお執りいただくことになりました。
その頃、かの市辺之忍歯王の御子である意富祁王(おおけのおう)と袁祁王(おけのおう)の二人が、播磨の国で牛飼いや馬飼いとなってひそかに生きながらえていることを、飯豊王はまだご存じなかったのです。
市辺之忍歯王(いちのべのおしはのおう)には、意富祁王(おおけのみこ)・袁祁王(おけのみこ)という二人の御子がおられました。
父・市辺之忍歯王は、大長谷若建命=雄略天皇の命によって暗殺されました。
お二人はその報せを聞くと、命の危険を悟ってただちに都を逃れました。これは、安康天皇が目弱王に暗殺された直後の出来事でした。
やがて山城の苅羽井(かりはい)に至り、乾飯を召し上がろうとしたところ、顔に入墨をした一人の老人が現れ、食べ物を奪いました。
お二人が「飯は惜しくはないが、お前は何者か」と問うと、老人は「山城で豚を飼う者だ」と答えました。
その後お二人は河内の玖須婆(くすば)の川を渡り、さらに逃れて播磨の国へ入りました。
そこで志自牟(しじむ)という者の家に身を寄せ、素性を隠して牛飼い・馬飼いとして仕えておられました。
この頃、山部連小楯(やまべのむらじのおだて)が播磨の国守に任じられて赴任しました。
ある日、小楯は志自牟の新築祝いの宴に招かれ、賑わう席で人々は次々と舞を披露しました。
そのうち、竈のそばで火を焚いていた兄弟にも舞えと声がかかりました。
弟が「兄上から」と譲れば、兄も「お前から」と返す。人々は、賤しい火焚きの子らが互いに譲り合う姿を面白がり、大いに笑いました。
ついに兄が先に舞い、次いで弟が舞い出ようとすると、大声で歌いあげました。
――武人であった我が父は、太刀の柄に赤き飾りを施し、緒に赤布をつけ、赤旗を高く掲げれば、人々は深き竹藪に隠れたように恐れた。今、竹のことを語り出したゆえに申す。竹を裂き並べて八弦の琴を作り、その調べを整えるように、履中天皇は天下を治められた。その皇子に市辺之忍歯王がおわした。我らは、その御子であるぞ。落ちぶれはしたが、ここに立つ二人は正統の王子である――
これを聞いた小楯は驚き、席から転げ落ちました。
すぐさま人々を追い出し、兄弟を膝の上に抱きとめて涙し、その労苦を労いました。そして人々を集めて仮の宮を築かせ、兄弟をそこに迎え入れました。
ただちに小楯は早馬を立て、叔母にあたる飯豊王(いいとよのおう)に急報しました。
飯豊王はこの吉報に大いに喜び、二人の王子をただちに宮中へお召しになったのでした。