目弱王の変が片づいた後、ほどなくして、安康天皇の弟である大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)、のちの雄略天皇のもとへ近江の佐々紀の山の君の祖先である韓袋(からふくろ)という者が参り、申しあげました。
「近江の久多綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)という所には、鹿が群れをなしておりまして、その足はまるで薄原のすすきのように見え、角は枯れ松林のように乱立しております。」
これを聞いた大長谷若建命は、「それは面白い」とお思いになり、従兄にあたる履中天皇の皇子・市辺之忍歯王を誘って、近江へと赴かれました。
やがて蚊屋野に到着されると、お二人はそれぞれ別々に仮宮を設けて、そこで一夜をお過ごしになりました。
翌朝、まだ日も昇らぬうちに市辺之忍歯王は目を覚まし、馬に乗って大長谷若建命の仮宮の前へ赴き、従者に向かってこう告げられました。
「まだお目覚めになりませんか?夜はもう明けましたよ。猟場においでなさいませ」
この言葉を伝え聞いた大長谷若建命の側近は、不審に思い、こう進言しました。
「市辺之忍歯王はおかしなことをおっしゃいました。どうか油断なさらず、御身を固めてお出ましください。」
そこで大長谷若建命は警戒して、お召物の下に鎧を着込み、弓矢を手に馬にまたがると、たちまち忍歯王を追って駆け出しました。
やがて両者は馬を並べて進みましたが、大長谷若建命は隙を狙って矢を抜き放ち、何ら罪のない市辺之忍歯王を射落としました。
さらにその亡骸を切り刻み、馬の飼葉桶に入れて、土の中に埋めてしまわれました。
近江の久多綿の蚊屋野は、滋賀県愛知郡秦荘町上蚊野(えちぐんあいしょうちょうかみがの)か蒲生郡日野町鎌掛(がもうぐんひのちょうかいがけ)ではないかとされています。
古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)
市の邊の忍齒の王①暗殺
これより後、淡海の佐佐紀の山の君が祖、名は韓帒白さく、「淡海の久多綿の蚊屋野に、猪鹿多にあり。その立てる足は、荻原の如く、指擧げたる角は、枯松の如し」とまをしき。この時市の邊の忍齒の王を相率ひて、淡海にいでまして、その野に到りまししかば、おのもおのも異に假宮を作りて、宿りましき。
ここに明くる旦、いまだ日も出でぬ時に、忍齒の王、平の御心もちて、御馬に乘りながら、大長谷の王の假宮の傍に到りまして、その大長谷の王子の御伴人に詔りたまはく、「いまだも寤めまさぬか。早く白すべし。夜は既に曙けぬ。獵庭にいでますべし」とのりたまひて馬を進めて出で行きぬ。ここに大長谷の王の御許に侍ふ人ども、「うたて物いふ御子なれば、御心したまへ。また御身をも堅めたまふべし」とまをしき。すなはち衣の中に甲を服し、弓矢を佩ばして、馬に乘りて出で行きて、忽の間に馬より往き雙びて、矢を拔きて、その忍齒の王を射落して、またその身を切りて、馬樎に入れて、土と等しく埋みき。
- 佐佐紀の山の君が祖(佐佐紀の山の君の祖先。山の君はカバネ)
- 淡海の久多綿の蚊屋野(滋賀県愛知郡)
- 市の邊の忍齒の王(履中天皇の皇子)
- うたて物いふ御子なれば、御心したまへ(変わったものをいう皇子だから注意しなさい)
- 馬より往き雙びて(馬上で進んで並んで)
- 馬樎(馬の食物を入れる箱)
- 土と等しく埋みき(土と共に埋めた)