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古事記現代語訳

古事記現代語訳㊽允恭天皇の氏姓制度改革

允恭天皇――お名を男浅津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと)と申し上げます――は、反正天皇のお後を継がれるべき方でありましたが、もともと長く病に悩まれていたため、「この身体では帝位にはとても就けない」と固くご辞退あそばされました。

しかし、皇后をはじめ群臣たちが「どうか」と熱心にお勧め申しましたので、ついにお受けになり、大和の遠飛鳥宮にお遷りになって天下をお治めになりました。

その御代に、新羅の国主から八十一艘の船に山のような貢ぎ物が届けられました。

大使として渡来したのは金波鎮(こみぱち)と漢紀武(かにきむ)の二人で、彼らは医薬に通じていたため、長年の天皇のご病気をみごとに癒やし申し上げました。これにより天皇はついに御年七十八までお健やかに生きられることとなりました。

さて、允恭天皇は次第に、国内の多くの部族が勝手に氏姓を名乗り、混乱しているのを深くお嘆きになりました。

そこで大和の味白檮(うまかし)の地に言八十禍津日(ことやそまがつひ)の神を祀り、そこに「玖訶瓮(くかべ)」という大釜を据えて、煮えたぎる湯を用いる「盟神探湯(くかたち)」の儀を行い、人々に自らの氏姓を名乗らせました。

正直に本当の氏を申した者は何の害もなく湯から手を引きましたが、虚偽を申し立てた者は、たちまちその手が焼けただれ、真実と偽りの区別が明らかになったと伝えられます。

允恭天皇はかくして氏姓を正しく定め、世の秩序を整えられました。

天皇は御年七十八、甲午の年正月十五日に崩御され、御陵は河内の恵賀の長枝に営まれました。

大阪府藤井寺市の市ノ山古墳がその陵に比定され、誉田御廟山古墳と並ぶ古市古墳群の壮大な前方後円墳として、今に伝わっております。