仁徳天皇の御世には、大陸から渡来した秦人(はたびと)を用いて、茨田(うまらだ)の堤や御倉を築かせ、また丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池を造らせました。
さらに難波の堀江を掘って海に通じさせ、小椅(おばし)の江を開き、墨江(すみのえ)の船着き場を定められるなど、この国の基盤を大いに整えられました。
仁徳天皇はある時、高い山に登り、四方の村々を見渡されました。そしてふと顔を曇らせて仰せになりました。
「見渡す限り、どの家々からも炊煙が上がっていない。これは人民が貧しく、ご飯を炊く余裕がないためであろう。よってこれから三年の間は、租税を一切免じ、労役も免除する」
その間、宮中へは何一つ納められるものがなく、天皇ご自身も大変不自由な暮らしを強いられました。
宮殿が壊れても修繕の費用はなく、雨が降れば桶を持ち込んで雨漏りを受け、ご自身は雫の落ちない場所を探して御座所(おましどころ)を移しながらお過ごしになりました。
しかし、天皇は少しも厭われることなく、ただ民を思いやる御心でこれを耐え忍ばれました。
やがて三年が過ぎ、再び山に登って国中をご覧になると、今度はどの村々からも炊煙が勢いよく立ち上り、国中が活気に満ちていました。
仁徳天皇はこれをご覧になって、「人民も豊かになっている」と仰せられ、ようやく租税と労役を課されました。
しかし、この時にはすでに人々に余裕があったため、納め物をするのも労役に出るのも苦にならず、むしろ進んで務めることができました。
このように仁徳天皇は、常に民の暮らしを第一にお考えになったので、人々から「聖帝(ひじりみかど)」と仰がれ、その御代は「聖の御世(ひじりのみよ)」と讃えられるようになったのです。