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古事記現代語訳

古事記現代語訳(35)品陀和気命の誕生

神功皇后は、まだ新羅征伐の途中で、お腹のお子さまがまさにお生まれになろうとしていました。

しかし、征伐中はお生まれにならないようにとお祈りになり、裳の腰に石を吊るしてお腹を鎮めておられました。

その石は筑紫の国、伊斗村(いとのむら)に残り、のちに「鎮懐石」と呼ばれ、現在、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に祀られています。

鎮懐石は、安産、子宝の守護石として信仰され、鎮懐石八幡宮は、夕日の名所としても知られています。

やがて皇后が凱旋して筑紫の地に戻られると、神様のお告げ通り、男のお子さまがお生まれになりました。

その御誕生の地を「宇美」と名づけました。現在の福岡県宇美町にあたり、「宇美八幡宮」として御子の誕生伝承を伝えています。

この御子は立派な男子で、生まれながらに腕に鞆(とも)、つまり、弓を射る際に左手首に着ける革具のような形をした肉がありました。

そこで神功皇后は、この瑞兆をそのままお名前にとって「大鞆和気命(おおともわけのみこと)」とお名づけになりました。

別の名前を「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」といいます。

この御子がのちの応神天皇であり、すでに母君のお腹の中から天下を治める威徳を示されたと人々は畏れ敬いました。

ある日、皇后は出征の前、筑紫の松浦県玉島里(まつらがたたましまのさと)の小河(おがわ)という河のほとりでお食事をなさいました。

その折、ちょうど四月上旬で鮎のよく釣れる季節であったため、裳の糸を抜き、食後のご飯粒を餌にして、川中の磯で鮎をお釣りになりました。

その場所を「勝門比売(かちとひめ)」と呼び、以来、この地方では四月になると女性たちが裳の糸を抜いて飯粒を餌に鮎を釣る風習が伝えられ、今も神功皇后のお徳を語り伝えるしるしとされています。

神功皇后は熊曽征伐を終えて、いよいよ大和へお帰りになろうとしましたが、御子の品陀和気命と腹違いの皇子、香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)が、まだ幼い御子の命を狙うのではないかとご心配になりました。

そこで母の神功皇后はお策略を巡らされ、喪船を一艘仕立て、幼い御子をその中にお乗せになって、「御子はすでにお隠れになった」と吹聴しながら、あたかも亡骸を伴って帰国しているかのように装われました。

この知らせを聞いた香坂王と忍熊王は、ここぞとばかりに自らが次の天皇になろうと考え、まず兵を集めて摂津の斗賀野に進軍しました。

そして狩りを行って戦の吉凶を占おうとしました。

香坂王が歴木(くぬぎ)に登って見物していると、突如として大きな怒り猪が現れ、その木の根元を掘り返して、木を倒し、香坂王を食い殺してしまいました。

これはもちろん、凶兆でありましたが、弟の忍熊王は意に介さず、軍勢を率いて皇后の軍を待ち構えました。

やがて皇后の船団が近づくと、忍熊王は喪船には兵が乗り込んではいないと見て、真っ先に攻めかかりました。ところがその船には選りすぐりの兵が潜んでおり、上陸するや否や激しい戦いとなりました。

忍熊王の軍の将軍は伊佐比宿禰(いさひのすくね)、皇后軍の将軍は丸邇の臣の祖先の難波根子建振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)でした。両軍は山城で激突し、一歩も退かずに戦いました。

建振熊命は策略をめぐらし、「神功皇后はすでに亡くなられた。もはや戦う必要はない」と告げ、味方に弓の弦を断たせて降参のそぶりを見せました。

伊佐比宿禰はこれを信じ、兵に武器を収めさせました。

その隙に建振熊命は髪に隠していた予備の弓弦(ゆみづる)を取り出し、再び弓を張って「討て!」と叫びました。

神功皇后の兵は一斉に攻めかかり、忍熊王の軍は不意を突かれて総崩れとなり、近江の逢坂まで退きましたが、再び敗れ、ついに沙沙那美でことごとく斬り伏せられました。

忍熊王と伊佐比宿禰は追い詰められ、琵琶湖に浮かぶ船に乗り移ろうとしましたが、逃げ切れぬと悟り、忍熊王はこう歌いました。

「さあ、振熊に討たれるよりは、鳰鳥(かいつぶり)のように琵琶の湖に潜り入ろう」

二人はそのまま湖に身を投じ、溺れ死んでしまいました。