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古事記現代語訳

古事記現代語訳(25)御真木入日子の諸国平定

崇神天皇天皇は、伯父で孝元天皇の御子である大毘古命 (おおひこのみこと)を北陸道(ほくろくどう)へ、その子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東山道(とうさんどう)十二道へ遣わして、それぞれ従わぬ人々を平定させました。

そして、日子坐王(ひこいますのみこ)を丹波へ遣わして、土雲の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)という人を討たせました。

東山道十二道とは、伊勢(志摩を含む)、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(上総、下総、安房)、常陸、陸奥とのこと。

丹波には、京都府船井郡の京丹波町と、兵庫県丹波市があります。当時の丹波国は、現在の京都、兵庫、大阪の広範囲に及んでいました。

『日本書紀』では、大彦命を北陸道、武渟川別命を東海道、吉備津彦命を山陽道、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)を丹波道に派遣し、この4人を「四道将軍」と呼んでいます。

大毘古命が北陸へ向かう途中、山城の幣羅坂(へらざか)腰布をまとった娘が現れ、不思議な歌を歌っていました。

「御真木入日子さまを討とうと、前の戸、裏の戸をうかがう者がいるのに、それを知らぬ御真木入日子さまよ」と。

不思議に思った大毘古命が、馬を引き返して問いただすと、娘は「ただ、歌を歌っていただけです」と言って、突然姿を消しました。

これを聞いた崇神天皇は、「山城の建波邇安王が謀反を起こしたに違いない」と悟り、伯父の大毘古命に軍を起こさせ、丸邇臣の祖・日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を副将として差し添えました。建波邇安王は、大毘古命の腹違いの兄です。

両軍は山城の和訶羅河、現在の木津川を挟んで対峙し、矢合わせをしました。そのため、ここを伊杼美(いどみ)といいます。今では伊豆美(いづみ)となっています。

山城の幣羅坂は、現在の京都府木津川市市坂幣羅坂で、この地に鎮座する「幣羅坂神社」の御祭神は、歌を歌っていた天津少女命(あまつおとめ)と大毘古命です。

伊豆美は、現在の京都府木津川市加茂町法花寺野あたり。泉川、泉大橋等の名称で今も残っています。

日子国夫玖命が「まず、そちらから清め矢を放て!」と言うと、建波邇安王は矢を放ちましたが、誰にも当たらず外しました。

しかし、日子国夫玖命の矢は建波邇安王を射抜き、討ち取りました。そのため、王を失った軍勢は総崩れとなり、敗走しました。

追撃された兵は苦し紛れに失禁して袴を汚し、その死骸は川に浮かんで鵜のように流れました。これにより賊は平定されました。

そのためそこをを屎褌(くそばかま)というのですが、現在は久須婆(くすば)と言っています。そしてその河を、鵜河(うがわ)といいます。

また、兵士たちを斬り、屠(はふ)ったということで、そこの名を波布理曾能(はふりぞの)ともいいます。

久須婆は現在の大阪府枚方市楠葉(くずは)で、淀川の楠葉の渡しは古くから重要な渡し場でした。波布理曾能は、現在の現在の京都府相楽郡精華町祝園(そうらくぐんせいかちょうほうその)とされています。

王が斬られたその場所には、現在も「和伎座天乃夫岐売神社(わきにますあめのふきめじんじゃ)(涌出宮)」があり、王の胴体に見立てた松明を奉納する天下の奇祭、「居籠祭」が伝わります。

首が飛んだとされる対岸の「祝園神社」にも同じ祭が残り、建波邇安王が悪霊となって田畑を荒らしたため、村人たちがこの霊を鎮めたという伝説を再現します。

そしてその後、大毘古命は越の国へ進み、息子の建沼河別命と合流しました。その後そこを「会津」というようになりました。

これにより東国・北陸も平定され、人民は富み栄えました。

さらに天皇は、この時はじめて人民に租税を課しました。

男からは弓矢で得た獲物、例えば獣の皮などの「弓端の調(ゆはずのみつぎ)」を、女からは手で紡ぎ織った布や糸などの「手末の調(たなすえのみつぎ)」として納めさせました。

これが租税の始まりとされます。

また、日本最古の人工池である、依網池(よさみのいけ)や軽の酒折池(かるのさかおりのいけ)を築いて農業を助け、国はどんどん豊かになりました。

「会津」は福島県です。依網池は現代の大阪市住吉区にある、「水の神さま」「勝負運の地」で知られている大依羅(おおよさみ)神社周辺、軽の酒折池は奈良県橿原市大軽町周辺だとされています。

この治世を讃え、人々は崇神天皇を「初めて天下を治めた御真木の天皇(初国知らしし御真木の天皇)(みまきのすめらみこ)」と呼びました。

崇神天皇は御年168歳で崩御し、御陵は山辺の道の勾の岡の上に営まれています。

『日本書紀』では、神武天皇が、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記されています。

山辺の道の勾の岡の上は、現在の奈良県天理市柳本町だとされています。崇神天皇陵とみられる全長242メートルの巨大な前方後円墳があります。

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

将軍の派遣

またこの御世に、大毘古おほびこの命高志こしみちに遣し、その子建沼河別たけぬなかはわけの命をひむがしの方十二とをまりふたに遣して、そのまつろはぬ人どもを言向けやはさしめ、また日子坐ひこいますみこをば、旦波たにはの國に遣して、玖賀耳くがみみ御笠みかさ(こは人の名なり。)らしめたまひき。

かれ大毘古おほびこの命、高志こしの國に罷りでます時に、腰裳こしもせる少女をとめ山代の幣羅坂へらさかに立ちて、歌よみして曰ひしく、

  • 大毘古の命(孝元天皇の御子)
  • の方十二(十二国に同じ。伊勢(志摩を含む)、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(上総、下総、安房)、常陸、陸奥の十二国であるという)
  • 旦波の國(京都府の北部)
  • 腰裳せる少女(腰に裳をつけた少女。裳は女子の腰部にまとう衣服)
  • 山代の幣羅坂(大和の国から山城の国に越えた所の坂)
御眞木入日子みまきいりびこはや、
御眞木入日子はや、
おのがを ぬすせむと、
しりよ い行きたが
まへつ戸よ い行き違ひ
窺はく 知らにと
御眞木入日子はや。  (歌謠番號二三)

 

と歌ひき。ここに大毘古おほびこの命、怪しと思ひて、馬を返して、その少女に問ひて曰はく、「いましがいへる言は、いかに言ふぞ」と問ひしかば、少女答へて曰はく、「は言ふこともなし。ただ歌よみしつらくのみ」といひて、その行くも見えずして忽に失せぬ。かれ大毘古の命、更に還りまゐ上りて、天皇にまをす時に、天皇答へて詔りたまはく、「こは山代の國なる我が庶兄まませ建波邇安たけはにやすの王の、きたなき心を起せるしるしならむ。伯父、軍を興して、行かさね」とのりたまひて、丸邇わにおみの祖、日子國夫玖ひこくにぶくの命を副へて、遣す時に、すなはち丸邇坂わにさか忌瓮いはひべゑて、罷りでましき。

 

  • 御眞木入日子(崇神天皇)
  • よ い行き(後方の戸から人目をはずして)
  • 窺はく 知らにと(窺うことを知らずにと、ニは打消の助動詞ヌの連用形)
  • その行くも見えずして忽に失せぬ(神が少女に化して教えた意になる)
ここに山代の和訶羅わからに到れる時に、その建波邇安の王、軍を興して、待ち遮り、おのもおのも河を中にはさみて、き立ちて相いどみき。かれ其地そこに名づけて、伊杼美いどみといふ。(今は伊豆美といふ。)ここに日子國夫玖ひこくにぶくの命、「其方そなたの人まづ忌矢いはひやを放て」と乞ひいひき。ここにその建波邇安の王射つれどもえ中てず。ここに國夫玖くにぶくの命の放つ矢は、建波邇安の王を射てころしき。かれその軍、悉に破れて逃げあらけぬ。ここにその逃ぐる軍を追ひめて、久須婆くすばわたりに到りし時に、みな迫めらえたしなみて、くそ出でて、はかまに懸かりき。かれ其地そこに名づけて屎褌くそはかまといふ。(今は久須婆といふ。)またその逃ぐる軍を遮りて斬りしかば、鵜のごと河に浮きき。かれその河に名づけて、鵜河といふ。またその軍士いくさびとを斬りはふりき。かれ、其地に名づけて波布理曾能はふりそのといふ。かくことむけ訖へて、まゐ上りてかへりごとまをしき。

 

  • 和訶羅(木津川の別名)
  • 久須婆(大阪府北河内郡淀川の渡り場)
  • 波布理曾能(京都府相楽郡)
かれ大毘古おほびこの命は、先の命のまにまに、高志こしの國に罷りでましき。ここに東の方より遣しし建沼河別たけぬなかはわけ、その父大毘古おほびこと共に、相津あひづに往き遇ひき。かれ其地そこ相津あひづといふ。ここを以ちておのもおのも遣さえし國の政をやはし言向けて、かへりごとまをしき。
ここに天の下平ぎ、人民おほみたから富み榮えき。ここに初めてをとこ弓端ゆはず調みつきをみな手末たなすゑの調たてまつらしめたまひき。かれその御世をたたへて、はつ國知らしし御眞木みまきの天皇とまをす。またこの御世に、依網よさみの池を作り、またかる酒折さかをりの池を作りき。
天皇、御歳一百六十八歳ももぢあまりむそぢやつ(戊寅の年の十二月に崩りたまひき。)御陵は、やまみちまがりをかにあり。

 

  • 相津(福島県の会津)
  • 弓端調(男子が弓によって得た物の貢物。獣皮の類をいう)
  • 手末の調(女子の手芸によつて得た物の貢物。織物、糸の類)
  • 國知らしし(新しい土地を領有した)
  • 依網の池(大阪市東成区)
  • 酒折の池(奈良県高市郡)
  • (奈良県磯城郡)