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古事記現代語訳

古事記現代語訳(31)倭建命③東征

景行天皇は、倭建命にこう仰せになりました。

「西の国は治めたが、東の方の十二か国にも、荒ぶる神々や従わぬ者どもが多い。おまえ、すぐに征して参れ」

そして、景行天皇は、武器として比比羅木之八尋矛(ひひらぎのやひろほこ)を授け、御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を副将としておつけになりました。

東の十二国には、伊勢(志摩を含む)、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(上総、下総、安房)、常陸、陸奧の十二国。

比比羅木之八尋矛は、ヒイラギの木で作った柄の長い矛のこと。ヒイラギは、葉の縁にトゲがあり魔物に対して威力があるとされています。

倭建命はお言いつけに従い、まず伊勢神宮に赴いて叔母の倭比売命に別れを告げました。そこで涙ながらに訴えました。

「父上は、私に早く死ねとお思いなのでしょうね。西国を征して帰ったばかりなのに、軍卒も与えず、すぐにまた東へ行けと……これでは死ねというに等しいではありませんか」

倭比売命は、その嘆きを優しく受けとめ、こう言いました。

「恐れることはありません。この剣を授けましょう。そしてこの袋も持って行きなさい。いざというときには、この袋の口を開けなさい」

こうして倭建命は尾張で出会った美夜受比売のもとに立ち寄り、「征伐を果たしたのち必ず戻ろう」と約束をして東へ向かいました。

熱田神宮の摂社に氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)という神社があり、美夜受比売が祀られています。

また、熱田神宮の境外摂社に松姤社(まつごしゃ)という社があり、ここが二人の出会いの場だったと伝わっています。

美夜受比売が川辺で布を晒していたときに、倭建命から、ヒカミの里への道を聞かれましたが、比売は最初、耳が聞こえない振りをしたと伝わっています。

氷上の里は、もともと「火上の里」と呼ばれていましたが、1382年、氷上姉子神社の社殿が火災にあったため火の字を避けて「氷上」と改められました。所在地は、現在も名古屋市緑区大高町火上山です。

その後相模に至ると、国造が罠を仕掛けました。

「この野に荒ぶる沼の神がいて人々を苦しめています。どうか退治してください」

そう言って倭建命を野へ誘い入れ、突然、四方から火を放ったのです。

「しまった、騙されたか!」

炎が迫るなか、倭建命は叔母の袋を開きました。

そこには火打石がありました。命は周囲の草を薙ぎ払い、火打石で逆に火を放ち、炎を操って包囲を突破しました。

そして国造とその一味を討ち滅ぼしました。これが「焼津」の地名の由来です。

以後、叔母から授かった剣は「草薙の剣」と呼ばれるようになりました。

その後、船でさがみ野半島から上総(かずさ)へと向かうために、走水海(はしりみずのうみ)を渡るとき、海の神が怒って大波を起こし、船が進めなくなりました。

焼津は現在の静岡県ですが、相模は現在の神奈川県なので、疑問が残ります。

三浦半島と房総半島に挟まれた浦賀水道から千葉県中央部に向おうとした。神奈川県横須賀市走水には、走水神社があり、倭建命と弟橘比売命をお祀りしています。

そこで、命のお后・弟橘比売命は静かに言いました。

「これは海神の祟りです。私が身代わりに入水して、海を鎮めましょう。あなたはどうか使命を果たして大和へ戻ってください」

そう言うと、菅の畳八枚、皮の畳八枚、絹の畳八枚を波に浮かべ、その上に身を投げました。

海上で波風の難に遭うのは、海の神が船中の人または物を欲するからで、その神の欲するものを海に入れれば波風が鎮まるとする言い伝えがありました。そこで姫が皇子に代って海に入って波風を鎮めました。

すると荒波はたちまち鎮まり、船は無事に進むことができました。

そこで比売はこう歌いました。

「相模の野で火に包まれた時、我が君は逆に私を案じて声をかけてくださった。その情けは決して忘れません」

七日後、比売の櫛が浜に流れ着きました。倭建命はそれを拾い、墓を築いて手厚く葬りました。

倭建命はさらに進み、足柄山にさしかかると白鹿に化けた坂の神が現れました。

命は食べ残しのニンニクを投げつけ、それが目に当たって鹿は倒れました。坂を越えると命は東の海を眺め、亡き妻を偲んで呟きました。

「ああ、我が妻よ……」

これが「あづま(吾妻)」の名の由来です。現在でも足柄から東を「東国(あずま)」と呼びます。

甲斐の酒折宮(さかおりのみや)に泊まった折、倭建命は家臣に問いました。

常陸の新治(にいはり)から筑波を過ぎて、いく夜を旅しただろうか」

すると、焚火を守っていた老人が答えました。

「九夜、そして十日でございます」

命はこれを褒め、その老人を東国造(あずまのくにのみやつこ)に任じました。

その後、信濃の坂の神をも平らげ、尾張へ帰還し、美夜受比売と契りを結びました。

甲斐の酒折宮は、山梨県甲府市酒折にあり、「連歌発祥の地」とされています。

新治と筑波は、現在の茨城県

東国造は、東方の国の長官ですが、実際はそのような広大な土地には、国造を置きません。

信濃の坂は、長野県の伊那市から岐阜県の恵那市に通ずる山路。

倭建命は、

仰ぎ見る天香具山、そこを横ぎる白鳥、そのような柔らかな弱腕を、抱きしめようとしたが、あなたの着ている打掛の裾に、月が出ているよ、

すると、美夜受比売は、

光り輝く私の御子様、大君様、新しい年が来たなら、新しい月がやってきます、あなたを待ちかねて、私の打掛の裾に、月も出たのでしょう、

そして草薙の剣を比売に託し、次なる戦い、伊吹山の神の征伐へと向かわれたのです。

名古屋市の熱田神宮では、三種の神器の一つである草薙の剣が祀られています。

日本書紀では、父親の景行天皇と倭建命は関係が良好で、倭建命が亡くなった後、天皇は、息子が平定した地域に巡幸に出たとされています。

また日本書紀では、景行天皇は、最初、大碓命に東国遠征を命じ、恐れて草のなかに隠れたと伝っています。その後、美濃、岐阜県に移され、身毛津(むげつ)氏と守氏の祖となったとのことです。

愛知県豊田市猿投町の猿投(さなげ)神社は、大碓命を御祭神としています。美濃の開拓に尽力しましたが、42歳の時、 猿投山山中で毒蛇に嚙まれ亡くなったとされています。

猿投山の名前の由来は、景行天皇が伊勢国へ赴いた際に、可愛がっていた猿が不吉なことをしたので、海へ投げ捨てた。その猿が現在の猿投山に籠って住んだとされることから、「猿投」と呼ばれるようになったそうです。

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

倭建の命の東征

ここに天皇、またきて倭建やまとたけるの命に、「東の方十二道とをまりふたみちの荒ぶる神、またまつろはぬ人どもを、言向けやはせ」と詔りたまひて、吉備きびおみ等が祖、名は御鉏友耳建日子みすきともみみたけひこを副へて遣す時に、比比羅木ひひらぎ八尋矛やひろぼこを給ひき。かれ命を受けたまはりて、罷りでます時に、伊勢の大御神の宮に參りて、神の朝廷みかどを拜みたまひき。すなはちそのみをばやまと比賣の命に白したまひしくは、「天皇既に吾を死ねと思ほせか、何ぞ、西の方のあらぶるひとどもをりに遣して、返りまゐ上り來しほど幾時いくだもあらねば、軍衆いくさびとどもをも賜はずて、今更に東の方の十二道の惡ぶる人どもをことむけに遣す。これに因りて思へばなほ吾を既に死ねと思ほしめすなり」とまをして、患へ泣きて罷りたまふ時に、倭比賣の命、草薙くさなぎたちを賜ひ、また御嚢みふくろを賜ひて、「もしとみの事あらば、このふくろの口を解きたまへ」と詔りたまひき。

  • 東の方十二道(十二国に同じ。伊勢(志摩を含む)、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(上総、下総、安房)、常陸、陸奧の十二国であるという)
  • 比比羅木八尋矛(ヒイラギの木の柄の長い矛。ヒイラギは葉の縁にトゲがあり魔物に対して威力があるとされる)
  • 神の朝廷(神が諸事を執り行われる所の意)

かれ尾張の國に到りまして、尾張の國の造が祖、美夜受みやず比賣の家に入りたまひき。すなはちはむと思ほししかども、また還り上りなむ時に婚はむと思ほして、ちぎり定めて、東の國に幸でまして、山河の荒ぶる神又は伏はぬ人どもを、悉にことむやはしたまひき。かれここに相武さがむの國に到ります時に、その國の造、いつはりて白さく、「この野の中に大きなる沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神なり」とまをしき。ここにその神を看そなはしに、その野に入りましき。ここにその國の造、その野に火著けたり。かれ欺かえぬと知らしめして、そのみをば倭比賣の命の給へるふくろの口を解き開けて見たまへば、そのうちに火打あり。ここにまづその御刀みはかしもちて、草を苅りはらひ、その火打もちて火を打ち出で、向火むかへびを著けて燒き退けて、還り出でまして、その國の造どもを皆切り滅し、すなはち火著けて、燒きたまひき。かれ今に燒遣やきづといふ。

  • 相武の國(相模の国に同じ。神奈川県の一部)
  • いとちはやぶる神(暴威を振う神)
  • 向火を著けてこちらから火をつけて向うへ焼く。野火に遭った時には、手元からも火をつけて、先に野を焼いてしまって難を免れる方法である
  • 燒遣(焼津とする伝えもある。静岡県の焼津町がその伝説地であるが、相武の国の事としているので問題が残る)

そこより入りでまして、走水はしりみづの海を渡ります時に、その渡の神、浪をてて、御船を廻もとほして、え進み渡りまさざりき。ここにその后名は弟橘おとたちばな比賣の命の白したまはく、「妾、御子にかはりて海に入らむ。御子は遣さえし政遂げて、覆奏かへりごとまをしたまはね」とまをして、海に入らむとする時に、菅疊すがだたみ八重やへ皮疊かはだたみ八重やへ、絁きぬだたみ八重やへを波の上に敷きてその上に下りましき。ここにそのあらき浪おのづからぎて、御船え進みき。ここにその后の歌よみしたまひしく、

さねさし 相摸さがむ小野をの
燃ゆる火の 中に立ちて、
問ひし君はも。  (歌謠番號二五)
かれ七日なぬかの後に、その后の御櫛みぐし海邊うみべたに依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵みはかを作りて治め置きき
  • 走水の海(浦賀水道から千葉県に渡ろうとした)
  • 弟橘比賣の命(日本書紀に穂積氏の娘とする)
  • 菅疊八重皮疊八重、絁八重を波の上に敷きて(波の上に多くの敷物を敷いて)
  • その上に下りましき(海上で風波の難に遭うのは、その海の神が船中の人または物の類を欲するからで、その神の欲するものを海に入れれば風波が鎮まるとする思想がある。そこで姫が皇子に代って海に入って風波を沈めたのである)
  • さねさし(枕詞。嶺が立っている義だろうとする。嶺は静岡県とすれば富士山、神奈川県とすれば大山である)
  • 御陵を作りて治め置きき(所在不明。浦賀市走水に走水神社があって、倭建命と弟橘姫とを祭る)
そこより入りでまして、悉に荒ぶる蝦夷えみしどもを言向け、また山河の荒ぶる神どもを平け和して、還り上りいでます時に、足柄あしがらの坂もとに到りまして、御かれひきこす處に、その坂の神、白き鹿になりて來立ちき。ここにすなはちそののこりのひるの片端もちて、待ち打ちたまへば、その目にあたりて、打ち殺しつ。かれその坂に登り立ちて、三たび歎かして詔りたまひしく、「吾嬬あづまはや」と詔りたまひき。かれその國に名づけて阿豆麻あづまといふなり。
すなはちその國より越えて、甲斐に出でて、酒折さかをりの宮にまします時に歌よみしたまひしく、
新治にひばり 筑波つくはを過ぎて、幾夜か宿つる。  (歌謠番號二六)
ここにその御火燒みひたき老人おきな、御歌に續ぎて歌よみして曰ひしく、
かがなべて 夜には九夜ここのよ 日には十日を。  (歌謠番號二七)
と歌ひき。ここを以ちてその老人を譽めて、すなはちあづまくにみやつこを給ひき。
  • 荒ぶる蝦夷ども(アイヌ族をいう)
  • 酒折の宮(山梨県西山梨郡)
  • 新治筑波(ともに茨城県の地名)
  • かがなべて(日を並べて)
  • (東方の国の長官。実際はそのような広大な土地の国の造を置かない)
その國より科野しなのの國に越えまして、科野の坂の神を言向けて、尾張の國に還り來まして、先の日にちぎりおかしし美夜受みやず比賣のもとに入りましき。ここに大御食おほみけ獻る時に、その美夜受みやず比賣、大御酒盞さかづきを捧げて獻りき。ここに美夜受みやず比賣、そのおすひすそ月經さはりのもの著きたり。かれその月經を見そなはして、御歌よみしたまひしく、
ひさかたの あめ香山かぐやま
利鎌とかまに さ渡るくび
弱細ひはぼそ 手弱たわやかひな
かむとは あれはすれど、
むとは あれおもへど、
せる おすひすそ
月立ちにけり。  (歌謠番號二八)

ここに美夜受みやず比賣、御歌に答へて歌よみして曰ひしく、

高光る 日の御子
やすみしし が大君
あら玉の 年が來經きふれば、
あら玉の 月は來經往きへゆく。
うべなうべな 君待ちがたに
せる おすひすそ
月立たなむよ。  (歌謠番號二九)

かれここに御合ひしたまひて、その御刀みはかしの草薙のたちを、その美夜受みやず比賣のもとに置きて、伊服岐いぶきの山の神を取りに幸でましき。

  • 科野の國(信濃の国。今の長野県)
  • 科野の坂(長野県の伊那から岐阜県の恵那に通ずる山路。木曽路は奈良時代になって開通された)
  • (オスヒは通例の服裝の上に着る衣服。礼装、旅装などに使用する)
  • ひさかたの(枕詞。語義不明。日の射す方か)
  • 利鎌(鵠の渡る線の形容か)
  • (クビは、クグヒに同じ。コヒ、コフともいう。白鳥。但し杙の義とする説もある。以上、たわや腕の譬喩)
  • 弱細(よわよわとして細い。修飾句)
  • やすみしし が大君(以上、天皇または皇子をたたえる。光り輝く太陽のような御子、天下を知ろしめす我が大君。ヤスミシシは語義不明)
  • あら玉の(枕詞。磨いていない玉の意。ト(磨ぐ)に冠する。月に冠するのは転用)
  • うべなうべな(ほんとにとうなずく意の語。底本にウベナウベナウベナとする)
  • 君待ちがたに(カタニは、不能の意の助動詞。万葉集に多くカテニの形を取り、ここはその原形)
  • 月立たなむよ(当然そうなるだろうの語意と見られる。この語形は、普通願望の意を表示するに使用されるのに、ここに願望になっていないのは特例とされる。ヨは間投の助詞)
  • 伊服岐の山(滋賀県と岐阜県との境にある高山)