神社と神話
神社で開運!
古事記現代語訳

古事記現代語訳(33)倭建命⑤白鳥の陵

倭建命が能煩野でお隠れになると、大和からはお妃や御子たちが急ぎ下って来て、御陵を築き、そのまわりの田に伏して泣きました。

倭建命のお后は、美夜受比売と弟橘比売命だけでなく、仲哀天皇の母の石衝毘売命(いはつくびめのみこと)など複数の女性が存在します。

お妃たちは、「私たちは稲の茎に絡みつく蔓芋のようだ」と、地面に身を投げ出して嘆き悲しみ、声を上げてお歌いになりました。

その時、倭建命は、御陵の中から大きな白鳥となって現れ、天高く飛び立ち、浜の方へと飛び去りました。

妃や御子たちはこれを見て、篠竹の切株で足を切り、血に染まりながらも構わず走り、泣きながら追いかけました。

ついには海にも入り、ざぶざぶと水をかき分けて追いました。

しかし白鳥は人々を置き去りにし、磯から磯へと伝いながら大空を翔け抜けていきました。

お妃たちはその姿を追いつつ、

笹の野原を苦労して進む。私たちは空が飛べずに、歩いて追うのです。

浜の千鳥が浜を避けて磯伝いに行くように、私たちも追い続けます。

と、口々にお歌を詠みながら、涙に暮れながら倭建命の御魂を追い続け間仁田。

白鳥はやがて伊勢から河内の志幾に舞い降りられました。

そこで改めて御陵を築き、しばし御魂をお鎮め申しましたが、白鳥は再び飛び立ち、さらに空高く駆け巡って、ついに羽曳野の地に落ち着かれました。

倭建命が諸国を征伐して巡られた折には、久米氏の祖先である七拳脛(ななつかはぎ)という者が、常に料理人として仕えたと伝えられています。

三重県亀山市の能褒野陵は倭建命が没した地とされ、奈良県御所市には白鳥が最初にとどまったと伝わる琴弾原白鳥陵(ことひきのはらしらとりのみささぎ)があります、

さらに、大阪府羽曳野市には全長約200mの白鳥陵古墳(はくちょうりょうこふん)があり、ここは最終的に白鳥が鎮まった地とされています。

倭建命の父の第十二代、景行天皇は、百三十七歳でお隠れになりました。御陵は山の辺の道の上にあります。

若帯日子命(わかたらしひこ)、第十三代、成務天皇は、景行天皇の御子で、近江の国の志賀の高穴穂宮においでになって天下をお治めなさいました。

この成務天皇は、建内宿禰を大臣となされ、大小国々の国の造をお定めになり、また国々の堺、また大小の県の県主をお定めになりました。

成務天皇は御年九十五歳にお隠れになりました。御陵は沙紀の多他那美にあります。

倭建命には男子が六人おられ、その中の帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)は、第十四代、仲哀天皇となられました。

山辺道上陵は、天理市渋谷町に存在する全長300メートルの前方後円墳。

近江の国の志賀の高穴穂宮は、滋賀県大津市穴太だとされています。また、大津市穴太には、高穴穂神社があり、御祭神は景行天皇です。

沙紀の多他那美の御陵は、奈良市山陵町にある佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)に治定されています。全長218.5メートルの前方後円墳です。

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

白鳥の陵

ここにやまとにます后たち、また御子たちもろもろ下りきまして、御陵を作りき。すなはち其地そこのなづき田匍匐はらばもとほりて、みねなかしつつ歌よみしたまひしく、

なづきの 田の稻幹いながらに、
稻幹いながらに ひもとほろふ ところづら。  (歌謠番號三五)

ここに八尋白智鳥しろちどりになりて、天翔あまがけりて、濱に向きて飛びいでます。ここにその后たち御子たち、その小竹しの苅杙かりばねに、足切り破るれども、その痛みをも忘れて、哭きつつ追ひいでましき。この時、歌よみしたまひしく、

  • 御陵(能褒野の御陵)
  • 其地のなづき田(御陵の周囲の田)
  • ひもとほろふ 薢(山の芋科の蔓草の蔓。比喩で這いまつわる状態を描く)
  • 八尋白智鳥(大きな白鳥。倭建の命の神霊が化したものとする)
  • 小竹苅杙(小竹を刈ったあと)
淺小竹原あさじのはら こしなづむ
虚空そらは行かず、足よ行くな。  (歌謠番號三六)

またその海水うしほに入りて、なづみでます時、歌よみしたまひしく、

海が行けば 腰なづむ。
大河原の 植草うゑぐさ
海がは いさよふ。  (歌謠番號三七)

また飛びてその磯に居たまふ時、歌よみしたまひしく、

濱つ千鳥 濱よ行かず 磯傳ふ。  (歌謠番號三八)
  • なづむ(腰が難渋【なんじゅう】する)
  • 足よ行くな(徒歩で行くよ。ナは感動の助詞)
  • いさよふ(ためらう)
  • 濱よ行かず浜からは行かないで
この四歌は、みなその御葬みはふりに歌ひき。かれ今に至るまで、その歌は天皇の大御葬おほみはふりに歌ふなり。かれその國より飛び翔り行でまして、河内の國の志幾しきに留まりたまひき。かれ其地そこに御陵を作りて、鎭まりまさしめき。すなはちその御陵に名づけて白鳥の御陵といふ。然れどもまた其地より更に天翔りて飛び行でましき。およそこの倭建の命、國けに廻りでましし時、久米くめあたへが祖、名は七拳脛つかはぎつね膳夫かしはでとして御伴仕へまつりき。
  • 河内の國の志幾(大阪府南河内郡)

景行天皇と成務天皇

大帶日子おほたらしひこの天皇(第十二代・景行天皇)の御年、一百三十七歳ももちまりみそななつ、御陵は山の邊の道の上にあり。
若帶日子わかたらしひこの天皇(第十三代・成務天皇)近つ淡海あふみ志賀しがの高穴の宮にましまして、天の下治らしめしき。

かれ建内の宿禰を大臣おほおみとして、大國小國の國の造を定めたまひ、また國國の堺、また大縣小縣の縣主を定めたまひき。

天皇、御年九十五歳ここのそぢまりいつつ御陵は、沙紀さき多他那美たたなみにあり。

  • 山の邊の道の上(奈良県磯城郡)
  • 近つ淡海志賀の高穴の宮(滋賀県滋賀郡)
  • 大國小國(諸国の意)
  • 大縣小縣(クニよりはアガタの方が小さい)
  • 沙紀多他那美(奈良県生駒郡)