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古事記現代語訳

古事記現代語訳(27)口をきかない本牟智和気御子

沙本毘売命が炎の中でお生みになった本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)は、母を失いながらも健やかにご成長されました。

父の垂仁天皇は御子を深くお慈しみになり、尾張の相津にある二股の大杉を伐らせ、その木で二股の丸木舟を作らせました。

二股の丸木舟とは、二艘をつなぎ合わせた船とされ、これは単なる舟遊びではなく、皇子が言葉を発し、健やかに成長するよう祈る儀式的な遊びだと考えられています。

これを遥々と大和に運び、磐余市師の池(いわれいちしのいけ)や軽の池に浮かべて、御子を舟遊びさせて慰められました。

しかし本牟智和気御子は、ご成人され、鬢髪が胸に垂れるほどの年齢になっても、一言も物を仰せになりませんでした。

「磐余市師の池」は、かつて現在の奈良県桜井市池之内から橿原市池尻の地に存在したと伝わる池。 「軽の池」は、かつて奈良県橿原市大軽付近にあったとされる池です。

『日本書紀』には、三十歳になるまで言葉を発しなかったと記されています。

ところがある日、空を渡る白鳥の声を耳にされると、初めて「バブバブ」と声を発せられました。

垂仁天皇は大いに喜び、山辺大鶙(やまのべのおおたか)に命じてその鳥を捕らえさせました。

大鶙は紀伊から播磨、因幡、丹波、但馬を経て、さらに近江、美濃、尾張、信濃を越え、ついに越の国の港で罠を張り白鳥を捕獲し、天皇に奉りました。

そのためその港を和那美の水門(わなみのみなと)と呼びます。

和那美の水門は、新潟県新潟市西蒲区和納付近だとされています。ワナミは罠網(わなあみ)の意味です。

天皇はこの鳥を御子にお見せすれば、言葉を話すようになると期待されましたが、御子は依然として沈黙したままでした。

天皇の憂慮は深く、心を痛めておられました。

そんなある夜、夢に神託がありました。

「我が社を天皇の宮殿のように造営するならば、御子は必ず口をきくようになるだろう」と。

天皇はただちに布斗摩邇(ふとまに)の法で占わせたところ、それは出雲大神、大国主命の御心であり、御子が口をきけぬのはその祟りによると判明しました。

天皇は御子を出雲へ参拝させることを決意し、誰を供にすべきか再び占わせると、開化天皇の子孫である曙立王(あけたつおう)が選ばれました。

曙立王はまず、鷺の巣の池で神に祈り誓いを立てました。すると「この誓いが真ならば鷺よ落ちよ!」と唱えるや、鷺は池へ落ちて死にました。

さらに「生き返れ!」と唱えれば、再び甦りました。同じく甘樫丘の樫の木の大きな立派な葉も、祈りによって枯れたり甦ったりしました。

鷺の巣の池は、奈良県橿原市四分町の鷺栖(さぎす)神社付近にあった池、甘樫丘は、奈良県高市郡明日香村に現在も存在しています。

天皇はその霊験に感服し、曙立王に「倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとはしきとみとよあさくらのあけたつおう)」という名を賜りました。

こうして曙立王と菟上王(うながみのおう)をお供に、御子を出雲へ遣わしました。

占いによって道を選ぶと、奈良や大阪の道は凶兆があり、紀伊の道のみが吉と出たため、その道を迂回して進み、御子が初めて声を出したことを記念して、行く先々に品遅部(ほむぢべ)の名代(なしろ)を定めました。

名代は、王族の功業を後世に伝えるために置かれた部民(べみん)。大化の改新前、朝廷や豪族が支配していた人民の集団。労役を提供し、生産物を貢納していました。朝鮮半島の百済の制度にならったものとされています。

やがて出雲に至り、御子が大神を拝まれると、帰途、肥の河、現在の斐伊川に皮つきの木を組んで作った橋を架け、出雲の臣の祖先の岐比佐都美(きひさつみ)という者が仮宮を設けてもてなしてくれました。

川下には作り物の青葉で飾られた山が供えられており、御子はこれを見て初めて明瞭に仰せられました。

「あれは山のようにに見えるが、山ではあるまい。あれは出雲石砢曽宮(いずものいわくまのそのみや)にお鎮まりになっている葦原色許男大神をお祀りしている祭壇なのだろう」

その瞬間、御子が言葉を発されたことに供の者たちは歓喜し、檳榔(あじまさ)長穗の宮から、急使を都へ走らせて天皇に奏上しました。

出雲石砢曽宮は出雲大社の別名で、葦原色許男大神は大国主命の別名。

檳榔長穂の宮は、本牟智和気御子が暮らしていた場所ですが、島根県松江市鹿島町の佐太神社付近だとされています。

檳榔は、ビロウ。ビロウは、古代朝廷において神聖な植物とされ、 大嘗祭においては現在でも、天皇が禊を行う百子帳の屋根材として用いられています。

さらに御子は肥長比売(ひながひめ)を妃に迎えましたが、しかしその正体は大蛇であり、恐れて逃げ出されました。

比売はなお慕って海を光らせて追いましたが、御子はますます気味が悪くなり、船を引きずって山を越え、再び海に出て、ようやく無事に大和へ還られました。

この知らせを受けた垂仁天皇は大喜びされ、菟上王を再び出雲に遣わして大神の社を壮麗に造営させました。

また、御子のために鳥取部、鳥甘部(とりかいべ)、品遅部、大湯坐、若湯坐といった品部を定め、白鳥の捕獲や水鳥の飼育を営ませました。

これらは御子が鳥をきっかけに言葉を発したことを記念する制度と伝えられています。

『日本書紀』によれば、相撲もこの御世に始まったとされ、出雲の野見宿禰(のみのすくね)と大和の当麻蹴速(たいまのけはや)が力比べをし、宿禰が勝ち、蹴速の領地を賜ったと伝えられています。

二人が相撲を取った場所は、奈良県桜井市穴師の穴師坐兵主神社。摂社に野見宿禰をご祭神として祀った相撲神社があります。

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

本牟智和氣の御子

かれその御子をて遊ぶさまは、尾張の相津なる二俣榲ふたまたすぎ二俣小舟ふたまたをぶねに作りて、持ち上り來て、やまと市師いちしの池かるの池に浮けて、その御子をて遊びき。然るにこの御子、八拳鬚心前つかひげむなさきに至るまでにまこととはず。かれ今、高往くたづが音を聞かして、始めてあぎとひたまひき。ここに山邊やまべ大鶙おほたか(こは人の名なり。)を遣して、その鳥を取らしめき。かれこの人、その鵠を追ひ尋ねて、の國より針間はりまの國に到り、また追ひて稻羽いなばの國に越え、すなはち旦波たにはの國多遲麻たぢまの國に到り、東の方に追ひ廻りて、ちか淡海あふみの國に到り、三野みのの國に越え、尾張をはりの國より傳ひて科野しなのの國に追ひ、遂に高志こしの國に追ひ到りて、和那美わなみ水門みなとに網を張り、その鳥を取りて、持ち上りて獻りき。かれその水門に名づけて和那美わなみ水門みなとといふなり。またその鳥を見たまへば、物言はむと思ほして、思ほすがごと言ひたまふ事なかりき。

  • 尾張の相津(所在不明)
  • 市師の池(奈良県磯城郡)
  • の池(奈良県高市郡)
  • あぎとひ(アギと言った。あぶあぶ言った)
  • 和那美水門(新潟県西蒲原郡、また北魚澤郡[#「北魚澤郡」はママ]に伝説地がある。ワナミは羂網【わなあみ】の義)

ここに天皇患へたまひて、御寢みねませる時に、御夢にさとしてのりたまはく、「我が宮を、天皇おほきみ御舍みあらかのごと修理をさめたまはば、御子かならずまごととはむ」とかく覺したまふ時に、太卜ふとまにうらへて、「いづれの神の御心ぞ」と求むるに、ここにたたりたまふは、出雲いづもの大神の御心なり。かれその御子を、その大神の宮ををろがましめに遣したまはむとする時に、誰をたぐへしめばけむとうらなふに、ここに曙立あけたつの王うらへり。かれ曙立あけたつの王におほせて、うけひ白さしむらく、「この大神を拜むによりて、まことしるしあらば、このさぎの池の樹に住める鷺を、うけひ落ちよ」と、かく詔りたまふ時に、うけひてその鷺つちに墮ちて死にき。また「うけひ活け」と詔りたまひき。ここにうけひしかば、更に活きぬ。また甜白檮あまがしさきなる葉廣熊白檮はびろくまがしをうけひ枯らし、またうけひ生かしめき。ここにその曙立あけたつの王に、やまと師木しき登美とみ豐朝倉とよあさくら曙立あけたつの王といふ名を賜ひき。すなはち曙立あけたつの王菟上うながみの王二王ふたばしらを、その御子に副へて遣しし時に、那良戸ならどよりはあしなへめしひ遇はむ。大阪戸よりもあしなへめしひ遇はむ。ただ木戸掖戸わきどの吉き戸と卜へて、いでましし時に、到りますところごとに品遲部ほむぢべを定めたまひき。

  • 出雲の大神(出雲大社の祭神。大国主の神)
  • 曙立(開化天皇の子孫)
  • へり(占いにかなった)
  • うけひ白さしむらく(神に誓って神意を窺わしめることは)
  • の池(奈良県高市郡)
  • 甜白檮(奈良県飛鳥村)
  • 葉廣熊白檮(葉の広い立派なカシの木。クマはウマに同じ。美称)
  • 那良戸(奈良県の北部の奈良山を越える道。不具者に逢うことを嫌った)
  • 大阪戸(二上山を越えて行く道)
  • 木戸(紀伊の国へ出る道。吉野川の右岸について行く)
  • 掖戸の吉き戸(迂回してゆく道でよい道)

かれ出雲いづもに到りまして、大神おほかみを拜みへて、還り上ります時に、の河の中に黒樔くろすの橋を作り、假宮を仕へまつりて、さしめき。ここに出雲いづもくにみやつこの祖、名は岐比佐都美きひさつみ、青葉の山をかざりて、その河下に立てて、大御食おほみあへ獻らむとする時に、その御子詔りたまはく、「この河下に青葉の山なせるは、山と見えて山にあらず。もし出雲いづも石硐いはくまの宮にます、葦原色許男あしはらしこをの大神もちいつはふりが大にはか」と問ひたまひき。ここに御供に遣さえたるみこたち、聞き歡び見喜びて、御子は檳榔あぢまさ長穗ながほの宮にませまつりて、驛使はゆまづかひをたてまつりき。

  • の河(斐伊の川)
  • 黒樔の橋(皮つきの木を組んで作った橋)
  • 出雲石硐の宮(出雲大社の別名)
  • 葦原色許男の大神(大国主の神の別名)
  • もちが大(お祭する神職の斎場か)
  • 檳榔長穗の宮(ビロウの木の葉を長く垂れて葺いた宮)

ここにその御子、肥長ひなが比賣に一宿ひとよ婚ひたまひき。かれその美人をとめ竊伺かきまみたまへば、をろちなり。すなはち見畏みて遁げたまひき。ここにその肥長ひなが比賣うれへて、海原をらして船より追ひ。かれ、ますます見畏みて山のたわより御船を引き越して、逃げ上りいでましつ。ここに覆奏かへりごとまをさく、「大神を拜みたまへるに因りて、大御子おほみこものりたまひつ。かれまゐ上り來つ」とまをしき。かれ天皇歡ばして、すなはち菟上うながみの王を返して、神宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子に因りて鳥取部ととりべ鳥甘とりかひ品遲部ほむぢべ大湯坐おほゆゑ若湯坐わかゆゑを定めたまひき。