景行天皇は、倭建命にこう仰せになりました。
「西の国は治めたが、東の方の十二か国にも、荒ぶる神々や従わぬ者どもが多い。おまえ、すぐに征して参れ」
そして、景行天皇は、武器として比比羅木之八尋矛(ひひらぎのやひろほこ)を授け、御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を副将としておつけになりました。
倭建命はお言いつけに従い、まず伊勢神宮に赴いて叔母の倭比売命に別れを告げました。そこで涙ながらに訴えました。
「父上は、私に早く死ねとお思いなのでしょうね。西国を征して帰ったばかりなのに、軍卒も与えず、すぐにまた東へ行けと……これでは死ねというに等しいではありませんか」
倭比売命は、その嘆きを優しく受けとめ、こう言いました。
「恐れることはありません。この剣を授けましょう。そしてこの袋も持って行きなさい。いざというときには、この袋の口を開けなさい」
こうして倭建命は尾張で出会った美夜受比売のもとに立ち寄り、「征伐を果たしたのち必ず戻ろう」と約束をして東へ向かいました。
熱田神宮の摂社に氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)という神社があり、美夜受比売が祀られています。
また、熱田神宮の境外摂社に松姤社(まつごしゃ)という社があり、ここが二人の出会いの場だったと伝わっています。
美夜受比売が川辺で布を晒していたときに、倭建命から、氷上の里への道を聞かれましたが、比売は最初、耳が聞こえない振りをしたとか。
その後相模に至ると、国造が罠を仕掛けました。
「この野に荒ぶる沼の神がいて人々を苦しめています。どうか退治してください」
そう言って倭建命を野へ誘い入れ、突然、四方から火を放ったのです。
「しまった、騙されたか!」
炎が迫るなか、倭建命は叔母の袋を開きました。
そこには火打石がありました。命は周囲の草を薙ぎ払い、火打石で逆に火を放ち、炎を操って包囲を突破しました。
そして国造とその一味を討ち滅ぼしました。これが「焼津」の地名の由来です。
以後、叔母から授かった剣は「草薙の剣」と呼ばれるようになりました。
その後、船でさがみ野半島から上総(かずさ)へと向かうために、走水海(はしりみずのうみ)を渡るとき、海の神が怒って大波を起こし、船が進めなくなりました。そこで、命のお后・弟橘比売命は静かに言いました。
「これは海神の祟りです。私が身代わりに入水して、海を鎮めましょう。あなたはどうか使命を果たして大和へ戻ってください」
そう言うと、菅の畳八枚、皮の畳八枚、絹の畳八枚を波に浮かべ、その上に身を投げました。
すると荒波はたちまち鎮まり、船は無事に進むことができました。
そこで比売はこう歌いました。
「相模の野で火に包まれた時、我が君は逆に私を案じて声をかけてくださった。その情けは決して忘れません」
七日後、比売の櫛が浜に流れ着きました。倭建命はそれを拾い、墓を築いて手厚く葬りました。
倭建命はさらに進み、足柄山にさしかかると白鹿に化けた坂の神が現れました。
命は食べ残しのニンニクを投げつけ、それが目に当たって鹿は倒れました。坂を越えると命は東の海を眺め、亡き妻を偲んで呟きました。
「ああ、我が妻よ……」
これが「あづま(吾妻)」の名の由来です。現在でも足柄から東を「東国(あずま)」と呼びます。
甲斐の酒折宮(さかおりのみや)に泊まった折、倭建命は家臣に問いました。
「常陸の新治(にいはり)から筑波を過ぎて、いく夜を旅しただろうか」
すると、焚火を守っていた老人が答えました。
「九夜、そして十日でございます」
命はこれを褒め、その老人を東国造に任じました。
その後、信濃の坂の神をも平らげ、尾張へ帰還し、美夜受比売と契りを結びました。
倭建命は、
仰ぎ見る天香具山、そこを横ぎる白鳥、そのような柔らかな弱腕を、抱きしめようとしたが、あなたの着ている打掛の裾に、月が出ているよ、
すると、美夜受比売は、
光り輝く私の御子様、大君様、新しい年が来たなら、新しい月がやってきます、あなたを待ちかねて、私の打掛の裾に、月も出たのでしょう、
そして草薙の剣を比売に託し、次なる戦い――伊吹山の神の征伐へと向かわれたのです。
名古屋市の熱田神宮では、三種の神器の一つである草薙の剣が祀られています。
日本書紀では、父親の景行天皇と倭建命は仲が良く、倭建命が亡くなった後、天皇は、息子が平定した地域に巡幸に出たとされています。