沙本毘売命が炎の中でお生みになった本牟智和気御子は、母を失いながらも健やかにご成長されました。
父の垂仁天皇は御子を深くお慈しみになり、尾張の相津にある二股の大杉を伐らせ、その木で二股の丸木舟を作らせました。
二股の丸木舟とは、二艘をつなぎ合わせた船とされ、これは単なる舟遊びではなく、皇子が言葉を発し、健やかに成長するよう祈る儀式的な遊びだと考えられています。
これを遥々と大和に運び、市師池(いちしのいけ)や軽の池に浮かべて、御子を舟遊びさせて慰められました。
しかし本牟智和気御子は、ご成人され、鬢髪が胸に垂れるほどの年齢になっても、一言も物を仰せになりませんでした。
『日本書紀』には、三十歳になるまで言葉を発しなかったと記されています。
ところがある日、空を渡る白鳥の声を耳にされると、初めて「あぁ!」と声を発せられました。
垂仁天皇は大いに喜び、山辺大鶙(やまのべのおおたか)に命じてその鳥を捕らえさせました。
大鶙は紀伊から播磨、因幡、丹波、但馬を経て、さらに近江、美濃、尾張、信濃を越え、ついに越の国の港で罠を張り白鳥を捕獲し、天皇に奉りました。
そのためその港を和那美の水門(わなみのみなと)と呼びます。
天皇はこの鳥を御子にお見せすれば、言葉を話すようになると期待されましたが、御子は依然として沈黙したままでした。
天皇の憂慮は深く、心を痛めておられました。
そんなある夜、夢に神託がありました。
「我が社を天皇の宮殿のように造営するならば、御子は必ず口をきくようになるだろう」と。
天皇はただちに布斗摩邇(ふとまに)の法で占わせたところ、それは出雲大神の御心であり、御子が口をきけぬのはその祟りによると判明しました。
天皇は御子を出雲へ参拝させることを決意し、誰を供にすべきか再び占わせると、曙立王(あけたつおう)が選ばれました。
曙立王はまず、鷺の巣の池で神に祈り誓いを立てました。すると「この誓いが真ならば鷺よ落ちよ!」と唱えるや、鷺は池へ落ちて死にました。
さらに「生き返れ!」と唱えれば、再び甦りました。同じく甘樫丘の樫の木も、祈りによって枯れたり甦ったりしました。
天皇はその霊験に感服し、曙立王に「倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとはしきとみとよあさくらのあけたつおう)」という名を賜りました。
こうして曙立王と菟上王(うながみのおう)をお供に、御子を出雲へ遣わしました。
占いによって道を選ぶと、奈良や大阪の道は凶兆があり、紀伊の道のみが吉と出たため、その道を進み、御子が初めて声を出したことを記念して、行く先々に品遅部(ほむぢべ)の民を定めました。
やがて出雲に至り、御子が大神を拝まれると、帰途、肥の河に黒木の橋を架け、出雲の臣の祖先の岐比佐都美(きひさつみ)という者が仮宮を設けてもてなしてくれました。
川下には作り物の青葉で飾られた山が供えられており、御子はこれを見て初めて明瞭に仰せられました。
「あれは山のようにに見えるが、山ではあるまい。あれは出雲石砢曽宮(いずものいわくまのそのみや)にお鎮まりになっている葦原色許男大神をお祀りしている祭壇なのだろう」
その瞬間、御子が言葉を発されたことに供の者たちは歓喜し、急使を都へ走らせて天皇に奏上しました。
さらに御子は肥長比売(ひながひめ)を妃に迎えましたが、しかしその正体は大蛇であり、恐れて逃げ出されました。
比売はなお慕って海を光らせて追いましたが、御子はますます気味が悪くなり、船を引きずって山を越え、再び海に出て、ようやく無事に大和へ還られました。
この知らせを受けた垂仁天皇は大喜びされ、菟上王を再び出雲に遣わして大神の社を壮麗に造営させました。
また、御子のために鳥取部、鳥甘部(とりかいべ)、品遅部、大湯坐、若湯坐といった品部を定め、白鳥の捕獲や水鳥の飼育を営ませました。
これらは御子が鳥をきっかけに言葉を発したことを記念する制度と伝えられています。
『日本書紀』によれば、相撲もこの御世に始まったとされ、出雲の野見宿禰と大和の当麻蹶速が力比べをし、宿禰が勝ち、領地を賜ったと伝えられています。