三輪山の大物主大神の祟り

御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、第十代・崇神(すじん)天皇は、大和の師木(しき)の水垣(みずかき)の宮において天下をお治めになりました。

師木の水垣の宮は、現在の奈良県桜井市金屋だとされ、志貴御縣坐神社(しきみあがたにますじんじゃ)の境内に、「崇神天皇磯城瑞籬宮(みずかきのみや)跡」の石碑があります。

崇神天皇の御代には、流行り病が蔓延し、大御宝(おおみたから)、つまり、人民は絶え果てようとしていました。

天皇は深く憂慮され、身を清めて神さまに祈り、床に就いたところ、夢に三輪山の大物主神が現れてこう告げられました。

「この疫病は私の祟りによるものだ。意富多多泥古(おおたたねこ)という者に私を手厚く祀らせれば、祟りは鎮まり、国も安らかになるであろう」

天皇は急いで使者を四方に走らせ、やがて河内の美努(みの)の里で意富多多泥古という男性を見つけ出し、宮中に呼びました。

河内の美努(みの)の里は、現在の大阪府八尾市上之島付近とされています。

一方、日本書紀では、大田田根子(おおたたねこ)のいた場所は茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)としています。こちらは、堺市を中心とした陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)辺りになります。

これは現在の堺市中区の陶荒田(すえあらた)神社の付近をさしているのではないかと考えられています。

引用元:山紫水明の日本

崇神天皇が「あなたは誰の子か?」と尋ねると、意富多多泥古はこう答えました。

「私は大物主大神の血を継ぐ建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子でございます。陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘、活玉依比売(いくたまよりひめ)が大物主大神と結ばれ、その4代目の子孫として生まれたのが、この私でございます」

一方、日本書紀では、意富多多泥古(大田田根子)は、大物主神の息子となっています。

三輪山の名前の由来

三輪山は、奈良県桜井市の標高467mの山で、大物主大神が鎮まっています。大神神社のご神体でもあります。

摂社の狭井神社からは、ご神体の三輪山に登拝できます。薬井戸の「御神水」は諸病に効くといわれています。

その昔、大変美しい活玉依比売(いくたまよりひめ)のもとへ、夜な夜な立派な姿の若者が訪ねてきました。

やがて姫は身ごもりましたが、男は明け方には忽然と姿を消し、それがどこの誰ともわからぬままでした。

親は不審に思い、ある夜、娘に「赤土を床に散らし、麻糸を通した針を訪ねてきた男の着物の裾に刺すように」と命じました。

翌朝、確かめると、糸は戸口の鍵穴を抜け、外へと続いており、残った麻糸はたった三巻きだけでした。その糸をたどると三輪山の社へと至り、男の正体が大物主神だとわかったのです。

そのとき生まれた子供の子孫が、意富多多泥古ということです。

麻糸が三巻きだけ残っていたことが、三輪山の名前の由来となっています。この意富多多泥古は、神(みわ)の君と鴨の君の祖先です。

彼が見つかったことを崇神天皇は大いに喜び、この意富多多泥古を三輪山の神主とし、大物主大神を丁重にお祀りさせました。

さらに、伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて、祭祀に用いる器をたくさん作らせ、天つ神から国つ神に至るまでに、ことごとくお供え物を奉りました。


宇陀の墨坂神(すみさかのかみ)には赤い盾と赤い矛をお供えし、大坂の神には黒い盾と黒い矛をお供えしました。また、坂の端の神や河の瀬の神にも、余すことなくすべてに供物を奉りました。

「宇陀の墨坂神」は、宇陀市榛原萩原に鎮座する「墨坂神社」、

引用元:なら旅ネット

「大坂の神」は、奈良県香芝市逢坂の「大坂山口神社」だとされています。

引用元:香芝市公式

神に武器を奉ることで、魔物が入るのを防ごうとしています。

崇神天皇は、流行り病を終息させるために、神々を祀る神社の制度を全国的に整えさせました。

疫病の終息

その後、たちまち疫病は鎮まり、国は平安を取り戻しました。

崇神天皇にはお子さまが十二人ありましたが、その中で皇女の豊鍬入日売命(とよすきいりひめ)は、初代の斎宮(さいくう)となられました。

このようにして、大物主神の祟りは鎮まり、崇神天皇の御代は安泰となったのです。

崇神天皇以降の天皇は、実在したのではないかという説が有力です。

斎宮(さいくう)、 別名 いつきのみやとは、伊勢神宮に巫女として奉仕する未婚の内親王または女王のことです。

豊鍬入日売命は、邪馬台国の女王卑弥呼の後継者、台与(とよ)だという説があります。

賀茂神社の巫女は、斎院と呼ばれていました。そして 伊勢神宮の斎宮と賀茂神社の斎院は、どちらも斎王ともいいます。

また、斎宮は御杖代(みつえしろ)、 斎院が阿礼少女(あれおとめ)ともいいます。

しかし、斎宮の制度は、南北朝時代に廃絶しています。

黒田清子さんは、2026年現在、伊勢神宮の祭主です。祭主は、別名、まつりのつかさで、未婚とは限りません。

古事記には「豊鍬入日売命は、伊勢の大神宮をお祭りになった」とシンプルに記されていますが、実際は、それまで宮中に祀られていた天照大御神を、笠縫邑(かさぬいむら)に遷しました。

笠縫邑は、奈良県桜井市三輪の大神神社の摂社、檜原(ひばら)神社付近がとくに有力な候補地です。

ここは元伊勢とも呼ばれ、本殿や拝殿はなく、「三ツ鳥居」を通して御神座を拝します。


倭比売命は、二代目の斎宮で、さらに天照大御神にふさわしい鎮座地がないかと、大和から伊賀、近江、美濃、尾張の諸国を巡幸し、現在の伊勢の地を選ばれました。

ちなみに、豊鍬入日売や倭比売が巡幸した場所はすべて「元(もと)伊勢」といいます 。だから、檜原(ひばら)神社も元伊勢なのです。

最終的に、現在の伊勢神宮の場所が選ばれた理由は、天照大御神、ご本人から、倭比売命にご神勅があったからです。

「神風の吹くこの伊勢の国は、常世からの波が、しきりに打ち寄せる国です。大和からは離れたところにありますが、美しい国です。私はこの国にいようと思います」

伊勢市楠部町には倭姫宮があり、14ある伊勢神宮の別宮の一つです。別宮とは、正宮、つまり、伊勢神宮の内宮と外宮の次に格式の高いお宮のことです。

倭迹迹日百襲姫命

日本書記では、大物主のお相手は、意富多多泥古のご先祖の活玉依比売ではなく、 第七代 孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)でした。

百襲姫は、大物主神の妻とになりましたが、大物主神は夜にしか現れず、百襲姫命がお姿を見たいと頼むと、翌朝、櫛笥(くしげ)の中に小蛇の姿で現れました。

百襲姫命が驚いて大声を上げると、大物主神は御諸山、現在の三輪山に姿を隠してしまいました。

百襲姫命は驚いて座り込んでしまいましたが、その時、箸が陰部を突き、それがもとで亡くなってしまいます。

そして、百襲姫命は奈良県桜井市の箸墓古墳に葬られました。この古墳は、昼は人が作り、夜は神が作ったと伝わっています。

邪馬台国畿内派のなかには、百襲姫命こそ邪馬台国の女王卑弥呼だと考える人もいます。

ちなみに、百襲姫は、紀元前290年から215年に在位していた第7代孝霊天皇の皇女で、豊鍬入日売は、紀元前97年から30年頃に在位していた第10代崇神天皇の皇女です。

 

古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)

美和の大物主

この天皇の御世に「役病えやみさはに起り、人民おほみたから盡きなむとしき。ここに天皇愁歎うれへたまひて、神牀かむとこにましましける夜に、大物主おほものぬし大神おほかみ、御夢に顯はれてのりたまひしく、「こはが御心なり。かれ意富多多泥古おほたたねこをもちて、我が御前に祭らしめたまはば、神の起らず、國も安平やすらかならむ」とのりたまひき。ここを以ちて、驛使はゆまづかひ四方よもあかちて、意富多多泥古おほたたねこといふ人を求むる時に、河内の美努みのの村にその人を見得て、たてまつりき。ここに天皇問ひたまはく、「いましは誰が子ぞ」と問ひたまひき。答へて白さく「は大物主の大神、陶津耳すゑつみみの命が女、活玉依いくたまより毘賣に娶ひて生みませる子、名は櫛御方くしみかたの命の子、飯肩巣見いひがたすみの命の子、建甕槌たけみかづちの命の子、やつこ意富多多泥古」とまをしき。

  • 神牀(神に祈って寝る床。夢に神意を得ようとする)
  • 神の起らず(神のたたり)
  • 驛使(馬に乗って行く使)
  • 河内の美努(大阪府中河内郡。日本書紀には茅渟【ちぬ】の県の陶【すえ】の村としている。これは和泉の国である)

ここに天皇いたく歡びたまひて、詔りたまはく、「天の下平ぎ、人民おほみたから榮えなむ」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古の命を、神主かむぬしとして、御諸山に、意富美和おほみわの大神の御前をいつき祭りたまひき。また伊迦賀色許男いかがしこをの命に仰せて、天の八十平瓮やそひらかを作り、天つ神くにかみの社を定めまつりたまひき。また宇陀うだ墨坂すみさかの神に、赤色の楯矛たてほこを祭り、また大坂おほさかの神に、墨色の楯矛を祭り、またさか御尾みをの神、かはの神までに、悉に遺忘おつることなく幣帛ぬさまつりたまひき。これに因りて悉にみて、國家みかど安平やすらぎき。

  • 神主(神のよりつく人)
  • 御諸山(奈良県磯城郡の三輪山)
  • 天の八十平瓮(多くの平たい皿)
  • 宇陀墨坂の神(奈良県宇陀郡。大和の中央部から見て東方の通路の坂)
  • 赤色の楯矛を祭り(奉ることによって祭をする。神に武器を奉って魔物の入り来るのを防ごうとする思想)
  • 大坂の神(奈良県北葛城郡二上山の北方を越える坂。大和の中央部から西方の坂)

この意富多多泥古といふ人を、神の子と知れる所以ゆゑは、上にいへる活玉依いくたまより毘賣、それ顏好かりき。ここに壯夫をとこありて、その形姿かたち威儀よそほひ時にたぐひ無きが、夜半さよなかの時にたちまち來たり。かれ相感でて共婚まぐはひして、住めるほどに、いまだ幾何いくだもあらねば、その美人をとめはらみぬ。

ここに父母、そのはらめる事を怪みて、その女に問ひて曰はく、「いましはおのづからはらめり。ひこぢ無きにいかにかもはらめる」と問ひしかば、答へて曰はく、「うるはしき壯夫をとこの、その名も知らぬが、ごとに來りて住めるほどに、おのづからにはらみぬ」といひき。ここを以ちてその父母、その人を知らむとおもひて、その女にをしへつらくは、赤土はにを床の邊に散らし、卷子紡麻へそをを針にきて、その衣のすそに刺せ」とをしへき。かれ教へしが如して、旦時あしたに見れば、針をつけたるは、戸の鉤穴かぎあなよりき通りて出で、ただのこれるは、三勾みわのみなりき。

  • 赤土を床の邊に散らし、卷子紡麻を針にきて、その衣のに刺せ」とへき(人間ならざる者の正体を見現すために行う。ヘソヲは糸巻にまいた麻)
  • れる(糸巻に残った麻)

ここにすなはち鉤穴より出でし状を知りて、絲のまにまに尋ね行きしかば、美和山に至りて、神の社に留まりき。かれその神の御子なりとは知りぬ。かれその三勾みわのこれるによりて、其地そこに名づけて美和みわといふなり。この意富多多泥古の命は、みわの君、鴨の君が祖なり。