第十二代、景行天皇、大帯日子淤斯呂和気(おおたらしひこおしろわけ)は、大和の纏向の日代宮においでになり、天下をお治めになりました。
大和の纏向の日代宮は、奈良県桜井市穴師(あなし)にあったとされています。
天皇は御身の丈が一丈二寸(約3.6メートル)、お膝から下が四尺一寸(約1.25メートル)という、まことに立派なお体格でいらっしゃいました。
天皇には八十人もの御子がありました。
そのうち、後に第十三代・成務天皇となられた若帯日子命(わかたらしひこのみこと)、小碓命(おうすのみこと)、さらにもうお一方の三人だけをお傍に残し、他の七十七人の皇子たちはすべて地方に遣わして、国造、別(わけ)、稲置(いなぎ)、県主(あがたぬし)といった職にお就けになりました。
あるとき、天皇は三野国の造の祖先・神大根王(かむおおねのみこ)の娘で、兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹が非常に美しいという評判をお聞きになりました。
そこで皇子の大碓命(おおうすのみこと)を遣わして二人を召し上げようとなさいました。
ところが、大碓命はその二人を自分の妻としてしまい、代わりに他の姉妹を探して兄比売・弟比売と偽り、天皇に奉りました。
天皇はそれが偽りであることをすでにお見抜きになっていましたが、あえてそれを咎めず、表向きは二人を宮中に置かれました。
ただし近くでお仕えさせることはせず、わざと他の役を与えて遠ざけることで、大碓命の不実をお懲らしめになったのです。
その後、大碓命が兄比売との間にもうけた子が押黒之兄日子王(おしくろのえひこのおう)、弟比売との間にもうけた子が押黒之弟日子王(おしくろのおとひこのおう)でした。
この御世には、天皇家の直轄領である屯倉(みやけ)と、それを耕作する部民の田部を定め、安房の水門(あわのみなと)を置き、また朝廷で料理を司る膳大伴部(かしわでのおおともべ)を設けられました。
さらに大和の租税収納所を整え、坂手池(さかてのいけ)を築いてその堤に竹を植えさせるなど、国の仕組みを広く定められました。
景行天皇は御年百三十七歳でお隠れになり、その御陵は山辺の道の上にあります。
安房の水門は、現在の千葉県館山市の平久里(へぐり)川の河口あたりだとされています。館山市はかつて安房国(あわのくに)でした。
坂手池は、現在の奈良県磯城郡田原本町阪手にあった池だとされています。
景行天皇の御陵は、天理市柳本町渋谷にある渋谷向山古墳とされています。
古事記・読み下し文・注釈(武田祐吉・青空文庫より)
五.景行天皇・成務天皇
兄比賣弟比賣二孃子
大帶日子淤斯呂和氣の天皇、纏向の日代の宮にましまして、天の下治らしめしき。
ここに天皇、三野の國の造の祖、大根の王が女、名は兄比賣弟比賣二孃子、それ容姿麗美しときこしめし定めて、その御子大碓の命を遣して、喚し上げたまひき。かれその遣さえたる大碓の命、召し上げずて、すなはちおのれみづからその二孃子に婚ひて、更に他し女を求ぎて、その孃子と詐り名づけて貢上りき。ここに天皇それ他し女なることを知らしめして、恆に長眼を經しめ、また婚ひもせずて、惚めたまひき。かれその大碓の命、兄比賣に娶ひて生みませる子、押黒の兄日子の王。こは三野の宇泥須和氣が祖なり。また弟比賣に娶ひて生みませる子、押黒の弟日子の王。こは牟宜都の君等が祖なり。この御世に田部を定め、また東の淡の水門を定め、また膳の大伴部を定め、また倭の屯家を定めたまひ、また坂手の池を作りて、すなはちその堤に竹を植ゑしめたまひき。
- 纏向の日代の宮(奈良県磯城郡)
- 恆に長眼を經しめ(長く見て居させる。待ちぼうけさせる)
- 東の淡の水門(神奈川県から千葉県安房郡に渡る水路)
- 倭の屯家(大和の国の租税収納所)
- 坂手の池(奈良県磯城郡)