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古事記現代語訳

古事記現代語訳(20)神倭伊波礼毘古命の東征

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)とその兄・五瀬命(いつせのみこと)は、日向の高千穂の宮においてご相談されました。

「ここ日向は辺鄙で政を行うのに不便である。どこに国を定めれば天下を治められるだろうか。やはり東へ進むべきであろう」

こうしてお二人は軍勢を従えて日向を出発し、九州の北方へ向かわれました。

まず豊前の宇佐に到り、土地の宇佐都比古・宇佐都比売の二神が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を築き、酒宴を設けてもてなしました。

次いで筑前に入り岡田宮に一年滞在し、さらに安芸の多祁理宮(たけりのみや)に七年、備後の高島宮に八年おられました(『日本書紀』では、高千穂から一年足らずで畿内に至ると記されています)。

そこからさらに東へ船を進め、速吸の門に差しかかると、亀の甲に乗り釣りをしながらやってくる者に出会いました。

呼び寄せて「お前は誰か」と問うと「国つ神の宇豆毘古(うずひこ)です」と答えました。

「お前は海の道をよく知っているか」と問えば「よく知っています」と言い、「俺の供をするか」との問いに「お仕えします」と答えました。

そこで船から棹を差し出して宇豆毘古を引き入れ、「槁根津日子(さおねつひこ)」の名を与えました。

やがて船団は難波の津を経て、河内の草香邑(くさかむら)の青雲の白肩之津(しらかたのつ)に到着しました。

そこに大和の登美の那賀須泥毘古(ながすねびこ)が兵を率いて待ち受けており、矢を射かけてきました。

伊波礼毘古命は船中の楯を取り、雨のように飛ぶ矢の中をくぐって上陸し、戦いました。そこでその土地を楯津(たてつ)と言います。今では、日下の蓼津と言っております。

この戦いで五瀬命は深い傷を負われ、「俺たちは日の神の御子であるのに、日に向かって戦ったのが良くなかった。これからは日を背にして戦おう」と言い、南へ回りました。

和泉の海で、手の血を洗ったので、その地を茅渟(ちぬ)と呼ぶようになりました。

しかし紀伊の男之水門(おのみなと)に至ると、徐々に傷の痛みが激しくなり、「つまらない者に傷を負わされて死ぬのは悔しい」と叫んでお隠れになりました。五瀬命の御陵は紀伊の亀山にあります。

伊波礼毘古命は紀伊の熊野に至り、那智の滝を目指しました。

この滝は、熊野那智大社のご神体で、紀伊山地の東南部に位置する熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社を「熊野三山」と呼びます。

するとそこに大熊が忽然と現れて消え、その毒気にあたり、命も軍勢も皆気絶してしまいました。

そのとき熊野の高倉下(たかくらじ)が一振りの大刀を奉じて現れ、横たわる命のもとへ差し出しました。

命は目覚めて「随分寝たものだ」と言い、大刀を受け取ると、その威力によって熊野村の荒ぶる神々はことごとく倒れ、逆に味方の兵士たちは正気を取り戻しました。

命がその由来を問うと、高倉下は語りました。

「昨夜、夢に天照大神と高木神が現れ、建御雷神に向かって『葦原中国が騒がしい。我らの御子が苦しんでいる。かつて汝が平定した国であるから降って助けよ』と告げられました。すると建御雷神は『私が降らずとも、その時に用いた大刀があります。これを降ろしましょう。高倉下という者の倉の屋根を突き破って落とします』と言われ、今度は、私に向かって『お前は目が覚めたら、この大刀を受け取って、天の御子に奉れ』と申されました。朝目覚めて倉の中を見れば、果たして剣がありました。ゆえにお届けしたのです」

この剣は佐士布都神(さじふつのかみ)といい、後に天理市布留町の石上(いそのかみ)神宮の御神体となりました。

さらに高木神が雲の上から諭されました。

「天の御子よ、これより奥に進んではならぬ。荒ぶる神が多い。今、八咫烏を遣わす。それに従って進め」

すると八咫烏が現れ、命が後をついて行くと、吉野川の河口に至りました。

そこで魚を捕る贄持之子(にへもつのこ)という土地の神に出会い、さらに進むと尻尾を持つ井氷鹿(ゐひか)という神が井戸から現れました。井戸は光を放っていました。

さらに山の中に入ると、尻尾のある石押分之子(いわおしわくのこ)という神が、岩を押し分けて現れ、「私は御子をお迎えに参りました」と申しました。

こうして命は尾を持つ神々を従え、険しい山々を踏み穿って、ついに大和の宇陀へと到られたのです。そのためここを宇陀の穿(うがち)と言います。